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アンサンブル・レオーネ/「創造の白樺」

 


 アンサンブル・レオーネの同人誌「創造の白樺」が平成14年4月に創刊しました。このページには第9号を掲示します。

 第8号については、以下をクリックしてご覧ください。

      「創造の白樺」第8号(平成15年6月、初夏号)

 

     創造の白樺・第9号(夏号)



             平成十五年八月

                

                      目     次


 
       1.新風川柳                       大橋新風   
                              
       2.昭和初期の貿易先駆者達の苦労と勤勉なユダヤ商人(6)   大橋新也  

       3.木曾福島演奏旅行記                  山下広之   

       4.e−mailアレルギー症候群
          〜パソコンの作業姿勢で、性格が分かる〜    大橋新也   

       5.「手賀沼の白鳥」奮闘記(1)              山下広之   
       

       6.新也の夜話  個人情報保護法が不況に竿さす   大橋新也   

       7.歌おう 東京少年少女合唱隊 50年の挑戦を読んで  山下広之   

       8.「僕は、涙の出ない目で泣いた」を読んで         山下広之   
  
       9.執筆者の紹介                            


新 風 川 柳            
                 大橋新風

失言を 敢えて正しと 理由付け

失言に 上乗せするか  見得を切り

居直るか みっともないぞ いつまでも

引き際が 潔くして 二度惚れる

節約も 度をすぎるれば 卑屈かな

中傷も 聴かれなくては 青二才

メルトモは すれ違っても 他人かな

見ず知らず ひとの情けは ありがたく

大人(タイジン)も もとより窮す 乱れずに

小人(ショウジン)は 困ったときに 騒ぎ散る

この世にて 怖いものはと 人間ぞ

怨霊も 諭してやれば ほとけなり

送り火に 心やすかれ 大文字

幼きを 思い浮かべて 海水着

からくさの 風呂敷見つけ いまむかし

手紙かき 切手なつかし 買い走る

丹精に たわわに実る サクランボ
芽を残し 来年咲けよ 挿し木する

爆弾を 落としすぎたか 梅雨はれぬ

タマゴッチ 生かす殺すは 意のままに

少年の 心に忍ぶ 魔の動き

愚作やわ 遊び心が ちと足らぬ

妻いずこ 酒の肴が 足りなくて

さわりだけ そう言いながら あがり込み

ほどほどに せぬかと妻が 目で語る

不況株 一雨降るか 俄か飴

諦める 心に未練 振り切れず

ゆかた着て こんなに色気 あったのか

Gパンは 何故か廃れぬ まか不思議

スカジャンは 世界に誇る 日本発

Tシャツは 日本発とは 誰が知る

あれほどの 渋滞道路 すいすいと

君も行く わても行くけど さてどこへ

江戸っ子は 下駄履いてから 考える

小雨ふる 犬にはカッパ 人は無く

夕方の 鬢付け香り 今は見ぬ


昭和初期の貿易先駆者達の苦労と勤勉なユダヤ商人(6)
アメリカンスピリッツは一ドル紙幣にその全てが表現されている。
〜宮武英丸氏の手記から・最終回〜                  
                            大橋新也


10)「マーシャルフィールドとの代理店契約」

 1952年(昭和27年)の春の事でした。久し振りにヴァン・ブラント氏から手紙が参り、「シカゴのマーシャル・フィールド(シカゴの有名な百貨店)のシニア・バイス・プレジデントに君を紹介しておいたので、近い内に日本へ行かれるので会いなさい。」との事でした。それから間もなくして、そのお方が東京に着かれ、電報で「帝国ホテルへ会いに来て欲しい」との要請があったのです。
 私は、当日約束の時間にホテルへ参りました処、早速ホテルの中庭にある特別室へ案内されました。そこには、既に副社長とインポート・マネジャーが待っておられました。先ずは、聞かれる侭に私の過去の経験を詳しくお話し致しました。その後で、日本に於けるBuying Agent(買付代理店)の話になり、「貴方が取扱った経験のある商品に就いては、貴方に託すことにします。」と言われ、協議の末、小田原以西地区のBuying Agentを引き受ける事になったのです。(小田原にはサラダ・ボールなどロクロで作った木製品のメーカーがある。)
 それ以後、毎年バイヤーが5〜6名から10名位、来日せられる様になりました。この様な状態が30年続きましたが、1980年頃、マーシャル・フィールドが英国系の会社に買収されてから取引は自然消滅しました。商取引は別として、私の会社にとってブラスになったのは、日本に於けるBuying
Agentとしてのネームバリューだったと思います。

 ここで、少しくマーシャル・フィールドについてエピソードを紹介しよう。
1871年と言えば、1842年阿片戦争終結後僅かに30年弱、香港から上海へ海底ケーブルが開通、そして香港/上海から英国のロンドンまで通信回線が開通した年であります。その1871年にアメリカ・シカゴに住むパトリック・オリアリーさんの牛小屋から火災が発生しました。その炎は、忽ちにしてシカゴ全域を嘗め尽くしてしまいました。そのため、10万人もの大勢の人達が家や店舗を失ってしまいました。翌朝、罹災した焼け野原に集まった人達は、呆然として立ちすくみ、何もやる気が起こりませんでした。そして、それなりに話し合いが始まり、この土地を捨てるか、それとも、粘って、茲に再建てるかと言う段になりました。が、然し、結果は、たつた一人を除いて、みんな罹災者は、この地を後に他に新天地を求めて立ち去りました。
 そのたった一人と言うのが、マーシャル・フィールド君だったのです。
 その時、大勢の人に、次の様に大見得を切ったのです。「皆さん、これから何度火災が起こっても、私はここに踏みとどまって必ず世界一の店を再建してみせます。」斯様に、不退転の決意をもって、その後にやってくる苦難を乗り越え、見事、世界に名を轟かす、立派な百貨店を築きあげたのであります。因みに、アメリカの百貨店は、日本の百貨店とは異なり、地下の食品売り場や階上のレストラン街などはありません。斯かる種類の売上成績に依存はしていないのです。

11)「進駐軍とのトラブル」
 1946年(昭和21年)スーベニア・ショップを開店して半年位した或る日の事、以前に数回来店した米軍の将校が訪れ、「実は盲腸炎の手術をする為に入院をする事になったが少しお金が足りないので、ここに持ってきたシガレット一箱(10パッケージ入り)とチョコレートを買って貰えないか」と言われたので、人助けをする積もりで先方の言われる侭に買って上げました。こちらはタバコを吸わないし、チョコレートも別段欲しくなかったのですが、僅かなことで断るわけにも行かなかったのです。当時、公には進駐軍人からこの様な物を買う事は禁止されていたのです。処が偶然かどうか、その翌日米軍のMP二人が来店し、前日買ったばかりのタバコとチョコレートの入った容器を見つけ「誰からどうして買ったのか」と問い詰められましたので、ありの侭をお話ししました。その結果「君の店は違反行為をしたので一週間営業停止にする」と言ってOff−Limits(立入禁止)の板を入口のドアーの上に打ちつけて帰って行きました。
 これは大変なことになつたと後悔しても後の祭りで何等手を打つ事も出来ず、仕方なく臨時休業しました。
 このMP二人は翌日も翌々日も閉店を確かめに来店し、その都度店内を見廻り自分達が気に入った商品の値段を聞きますので、定価通りの値を言いましたら如何にも不満さうな態度で帰って行きました。もしも、この時、大きな値引きでもしたら、看板を取り外してくれたかも知れませんが、その様な事をするのは私の良心が許しませんでした。
 然し、一週間過ぎてもOff−Limitsの看板を取り外しに来ないので営業を再開する事が出来ませんでした。
 そこで、MPの詰め所に行き、事情を聞いた処、その二人のPMは大阪へ移動した事が判り、困り果てました。私は意を決して第五空軍司令部へ行き、「Chiefに会わせてください」と護衛兵に話しましたら直ぐにエレベーターで案内してくれたのは司令官室でした。護衛兵がノックして部屋に入り、私はドアーの外で待っていましたら、直ぐに入る様に言われました。私はまさか司令官室へ直接案内されるとは知らず吃驚しました。
 司令官室は広々とした大きな部屋で入口に向かって仕事をして居られました。そこで私は司令官のデスクの前に行き、挨拶をして事件の顛末を申し上げました処、司令官は頷かれ、「わかった。それでは私が君にその看板を取り外す事を許可しますから、直ぐに帰ってそれを取り外してここへ持って来なさい」と言われ、感激しました。お礼を言って引き返し、再び司令官室へ案内してもらい、司令官にお渡しして重ねてお礼を述べて引き下がりました。私はこの時、アメリカ人の寛容さに改めて敬意を表しました。

12)「第二の事件」
  これは前の事件があってから四、五ヶ月後の事です。
 或る日の午後、米人の船員らしき服装をした客が五、六名一緒に店に入って来て陳列品をあれこれと手に取って眺めていましたが、その中の一人が棚の上段に陳列してあった大理石の置時計を指して値段を聞きましたので、¥3,500.と言いました。実はこの時計は店の装飾用に松坂屋で買ったもので売値はつけてなかったのです。そこで、買った侭の値を言いました。狭い店内で大勢一緒に来られ、それぞれが色々と質問をされたり値段を聞かれたりするので、テンテコ舞いでした。
 然し、二三人が単品を少々買われた程度で帰られた後、暫くしてから棚の上を見ると例の大理石の時計がなくなっているのに気づきました。これは先程数人連れできたお客の誰かが持ち去ったに違いない、と思いました。
 夕刻店を閉めていましたら、筋向いに住んでいた方が声をかけてこられ「貴方のお店へ今日の午後来られた客の一人が時計らしい物を裸のまま脇の下に抱えて行きましたが、それでよかったのですか?」と尋ねられ、「やっぱりそうでしたか、実は陳列棚の上に置いてあった大理石の置時計がなくなっているので、きつと今日の午後数人連れで来た外人の誰かが持ち去ったに違いないと思っていた処です。」と話しました。
 さて、「どうしたら良いか」と考えましたが、損得は別問題として、この様な事を見逃すと米駐留軍が一般民衆の信頼を失う事になるので、その翌日、MP詰所へ届けました。するとMPは「先ずその現場を見た証人を連れていらっしゃい」と言われましたので、例の筋向いの方に事情を説明し、一緒にMP本部へ出頭し、証言して貰いました。
 すると、一両日後の午前10時頃、MP二人がジープで訪れ、私にこれから一緒に名古屋港へ行く様に言われ、私もジープに同情して名古屋港に接岸していた米軍の輸送船へ案内されました。
 先ず船長室に行き、MPが船長と暫く話し合っていましたが間もなく全船員を甲板に一列に整列させました。そこで、私をその前に連れて行き「貴方が時計を持ち去った犯人と思う人を指しなさい」と言われましたが、私は「値段を聞いた人は、あの人に違いない」と思いましたが、若しも間違っていたら大変迷惑をかけるので、残念ながら、確信がもてないので指すのを差し控え、MPにその旨を言いました。MPは「それでは仕方がない」と諒承して直ぐに全員を開放しました。その後、私を船員食堂へ案内してランチを振舞ってくれました。ビーフカレーライスとコーヒーでしたが、当時としては、ご馳走でした。
 その後、MP二人がジープで店まで送ってくれましたが、私には何となく後味の悪い思いがしました。処が、その二日後にMPから電話があり、その翌日午前10時に米軍病院内の仮設の法廷へ出頭する様にと伝えられました。何事かと思って気にしながら当日私が出頭して法廷に入りました。見覚えのある犯人らしい人物が前方の一段高い席に入口に向かって腰掛けていました。又、その横のテーブルに持ち去られた大理石の時計が置いてありました。
 10時になると軍服姿の裁判官が着席せられ、開廷が宣言されました。
裁判官が私に向かって置時計を指して「これが貴方が盗難にあった時計ですか」と問われましたので、私は、「間違いありません。その通りです。と答えました。
 次に「犯人を指しなさい」と言われましたので、その横にいた人を指しました。
「それでは、貴方はこの時計を持ち帰りなさい。」と宣告されました。
 私は起立して、「その時計は、この病院へ寄贈します。」と申し上げ退廷しました。私は米軍のこの事件に対する誠意ある処置に改めて感銘を覚えました。
     この二つの事件を知っているのは、私と澤田さんだけです。これまで外部へは一切漏らしませんでした。 
                                               以 上


木曾福島演奏旅行記
 山下広之


 平成15年7月13日(日)午後2時から長野県木曽郡日義村の木曾文化公園文化ホール(定員714人)で合唱団「風雅」の2ndコンサートが開かれ、アンサンブル・レオーネも第2ステージで山田耕筰作品集を演奏し、さらに最後のステージで風雅と合同で混声合唱組曲「旅」(作曲・佐藤眞)を演奏した。
 前日7月12日(土)朝新宿発8時のスーパーあずさ3号に乗り10時28分に塩尻到着。応援団として同行してくれた合唱団ミューズの一行も一緒であった。ここで風雅の指揮者の唐沢先生の案内で、車で旧中仙道をたどり島崎藤村の「夜明け前」の“木曾路はすべて山の中であった”の朗読を聴きながら30分で奈良井宿に到着。旧宿場町の静かな佇まいの中を散策し、漆塗りの作業場を見学して職人さんのお話を伺ったり、木曾檜の民芸品や日用品などを購入したりして旧宿場町の雰囲気を満喫した。    
 昼食は日本蕎麦の「なかせ」で、入り口に楠本憲吉の「蕎麦美味し 十里厭わず 来し我に」の句碑が建つ老舗であった。あざみ、セリ、コーンフリーなどの天麩羅を添えた蕎麦の味は大変美味しかった。昼食後開田高原から標高3千メートルの御嶽山の威容を眺め、高原アイスクリームを舐めながら高原の風情や木曾馬の体験乗馬などを楽しんだ後木曾福島町に入った。
 木曾福島は木曽路の中心にある人口8千人の町で、江戸時代には箱根関所などと並んで日本の4大関所の一つである福島関所が置かれていた、歴史と文化の町である。木曽川沿いの崖家づくりと白壁土蔵の町並み、3千メートル級の山に囲まれた、檜と漆器、それに木曾義仲ゆかりの標高800メートルの町だ。指揮者の唐沢先生のお父さんがかつて町長を勤め、お母さんが毎年夏に開かれる木曾音楽祭を有名にされた。
夕方から2時間ほど合唱団風雅と合同で混声合唱組曲「旅」のリハーサルを行い、終了後木曽駒高原にある森のホテルへ到着した。20室・100人を収容する瀟洒なホテルだ。高原の風に揺られながら第一夜を過ごした。
 翌朝は高原の霧とともに起きだし、本日の演奏会場である、朝日将軍木曾義仲の生まれ育ったゆかりの日義村にある木曾文化公園文化ホールへ向かった。客席714席の木で作られた響きの良いホールである。午前中リハーサルで最後の調整をし、午後2時からの演奏会に臨んだ。
ほぼ満員のホールでの演奏は第1ステージは32人の風雅によるグレゴリオ聖歌、第2ステージはレオーネによる「からたちの花」「青蛙」「赤とんぼ」「この道」の山田耕筰の作品と、我々の十八番ともいえる小山章三の「あなたを知らない」を和田秀子さん(フォンテ、朋の団員)の朗読を添えて演奏した。第3・第4ステージは風雅の「月の角笛」と「五つのわらべうた」で、最後のステージはレオーネも登場して合唱組曲「旅」を演奏、アンコールに小山章三の「信濃の秋」を、さらに拍手に応え「大地讃唱」を歌い演奏会を終えた。
 ロビーコールでは軽快な「いざ起て戦人よ」を歌い、続いて小山章三の「今日のひととき」で観客をお送りした。
続いてホール内のレストランで行われた打ち上げパーティーに出席し、来客と一緒に乾杯で演奏会の成功を祝った後、森のホテルに戻り、レストラン「ヴァルトブルーメ」で風雅と一緒に盛大に二次会を開いた。駆けつけたフォンテや朋のメンバーの方々も参加して高原のワイン、木曾の地酒、木曾牛のシチューなど盛りだくさんの珍味を飲み、かつ歌い、木曾節を舞い、そのざわめきは初夏の高原の長い夜をいつまでも彩っていた。
翌朝もレオーネは元気一杯、朝食後今日訪問演奏する曲目を一通り練習してから上松町の知的障害者福祉施設「上松荘」を訪ね、ホールでコンサートを開き、「箱根八里」「荒城の月」「赤とんぼ」他を歌い、障害者の皆さんにまじって「ふるさと」や「信濃の国」などを共に歌い、楽しいひと時を過ごした。引き続き同じ上松町の養護老人ホーム「木曾寮」を訪問し、ホールで歌い、お年寄りと交流した後、続いて同じ敷地内の特別養護老人ホーム「木曾寮」を訪問し、コンサートを開き、お年寄りと交流した後施設を後にした。
 これで予定したコンサートをすべて終え、昼食は上松町にある創業三百年の歴史の蕎麦屋「越前屋」で、名物「蕎麦寿司」と「手打ち寿命蕎麦」を美味しく味わった。食後は木曽川の渓流に沿う「寝覚めの床」の美しい岩石にしばし憩いのときを過ごした。
 木曾福島町に戻り、風雅のソプラノ・富樫さんのいる菓子舗「大村庵」で名物の「蕎麦饅頭」や「ほおば巻き」などをお土産に買い、また唐沢先生の同級生の醸造元・中善酒造では木曾の銘酒「中乗りさん」など地酒を買い、裏の醸造施設の充実ぶりを見学させていただいた。またアルトの上村さんが経営する「かみむら」では木曾の下駄ほかの記念の土産類を買い、関所跡も見学して夕方5時過ぎに現地を後にし、唐沢尚之氏の運転するバスで一路帰途に着いた。途中諏訪湖で休憩し、車内では唱歌や童謡、なつかしい歌など歌合戦のように次々と歌い続けてあっという間に100曲以上を歌いながら、4時間少しで我孫子に到着した。思い出深い有意義な3日間の演奏旅行であった。


−mailアレルギー症候群
〜パソコンの作業姿勢で、性格が分かる〜
                              大橋新也

はじめに
 日本人には、e−mailアレルギー の人たちが多いのにはビックリいたします。
斯く申す筆者も、日本人ですが。その症状になってしまう人達は、概ねどういう人かと言いますと、驚くなかれ、とりわけ、管理職或いは管理職経験者が多く、次に、意外や意外、中堅サラリーマンに多くみられます。
 反面、携帯電話による、iモードのメーリングは、小中学生、高校生、そして、専門学校や大学の生徒、更に、若い社会人の間では、急速に普及しています。シングルハンドで、全て用が足せると言う事が、幅広い年齢層に普及したのでしょう。
話しをe−mailに戻しましょう。前者、後者に共通する点は、「キーボード・アレルギー」です。両手の指、十指を自由にブラインドタッチで駆使する人は、意外に少なく、アマダレ式入力が大半です。
そんな事は、どうでも良いことなのです。本場、欧米人ですら、アマダレ式や人差し指オンリー( one finger typing )で入力する人も多く見かけるのです。
 かかる欧米人達は、だからと言って、決して e−mail アレルギーではありません。なのに、こと日本人となると、キーボードの操作以前の問題で、e−mail アレルギーなのです。
 欧米人は、パソコンは、習うと言う感覚は、ありまない様です。誰でもイタズラをしている内に自然と学習してしまうのです。
日本の場合、一般的に、日本語入力は、全角キャピタルレターでのアルファベットによる概ねヘボン式に準じたで入力で日本語に変換しながらの入力です。実際には、多くのパソコン教室では、その方式を教える様です。だが、欧米では、英語の場合、ABC〜〜と、
直接入力だけで殆ど用が足ります。この辺りの違いが、日本人には、パソコンの食わず嫌いが多いのてはないでしょうか。
それから、もう一つ、e−mailを受けたら、即返事をせねばならないと言うプレッシャーにかられるのです。ならば、インターネットは見るけれど、メールは、いやと言う人が非常に多いのです。
 更に、もう一つ、パソコンは、よくハングするので、その場合の適切な処置がどうも苦手と言うことで、これまた、パソコンは、買っても、実際は飾ってある。と言う誠に情けないタイプ。
パソコンは、本来、二進法の基に作られ、発展してきたものです。ですから、本来は、単純な機械なのだと言う認識が大切です。言い換えれば、Yes か Noかの世界なのです。ですから、一寸待って・・・とか、ファジー的な思考は、どんどん乗り遅れてしまうのです。
そこで、パソコンに親しむには、オツムの方を柔らかく、素直にする事が第一条件です。

本 文

その一。「人付き合いは良くても、マイペースな人。 人の話しは聞くだけは聴いても、
最後は、自分のペースに相手や周囲を取り込まないと気がすまない人。」
 こう言う人は、どうしても、コミュニケーションは、電話方式になり、書類に認めたりは、パソコンを主として「ワープロ」を主体として用います。そして、パソコンから直接FAXするのではなく、一度プリントアウトして、目で確かめてからFAXで配信します。デスクトップ上で見ただけでは、心配なのです。
 勿論、FAXした書類(原本)は、パソコンの中のハードディスクにfileするのではなく、従来のボール紙でできたファイルに保存し、書棚に収納します。勿論、自分のスケジュールは、従来のあの分厚いシステム手帳に克明に記入します。
 更に、FDやCDなどに保存することなんか、頭では解っていても? (ホントかな?) ・・・・・・絶対にやりません。
 稀に、「私は、パソコンで何でもやっている」と言う人がいますが、自分の
e−mail addressは、プロバイダーの無償利用のタイプで、プロバイダーが割り当てるサーバーの許容量は極僅か。
こまめに、メールを開いて、許容量を空けておくかと思いきや、実際は、そうではなく、プロバイダーのサーバーに溜め込んでいる。それでも、対外的には、「私のPCのハードディスクの容量は150GBだ!」なんて、自慢げである。実に馬鹿げたことですが、本当なのです。
 たまたま、友達になったばかりの人が、彼にe−mailを送ると、そんなに重いメールでもないのに、Postmasterから、Overquotaと言うことで、Non−deliveryのmessageが到着する。
 また、インターネットで、色々と情報を取り入れますが、その都度「お気に入り」にfileはするものの、主なサイトは、デスクトップにショートカットのアイコン(Icon)を処狭しと並べて、次回からは、その Icon から入ります。アホとしか思えません。 デスクトップにIconを並べておけば、その分だけ、PC内のメモリーが食われているのです。
 もしも、オツムの程度が知りたければ、デスクトップにショートカットのiconが処狭しと並べられていた場合。友として親しくする相手ではないと思って間違いはありません。
 こう言う人間と、交際していると、短い期間で、完全に縛られてしまいます。
ですから、その人物の周囲を見てごらんなさい。友達が年中変わっています。要するに心ある人は、一、二度、交際すると、三十六系、離れて行ってしまうのです。
 要するに、斯様な人は、何か催し物があると、万障繰り合わせて、現れ、一生懸命に愛嬌を振りまきます。しかし、あまりにも自分の陣営に引き込もうとするので、結局は孤立してしまいます。

その二。「e−mail addressを所持していながら、公表に躊躇する人は、理論派であって実がない。」
  e−mail addressがActiveであると言うことは、
当然 InternetもActiveであるから、 e−mail addressを所持していながら、公表に躊躇する人は、非常に自我がつよいと解釈しても過言ではない。
 そもそも、e−mailを受信して、開封の後、少なくとも、一時間以内に何らかの返事をしないと、発信者を軽蔑することになる。勿論、一方的に送られてくるPR用のmailは、ほっておいてもよい。
 今すぐに返事ができなければ、「メール拝受。後刻ご返事をさせていただきます。」程度は致すのが礼儀というもの。(PCアレルギーの人は、こんな簡単な返信もしない。)
 ところが、現実に、メールを開いても、返事をしない人が、日本人の場合、かなり多い。かと言って、そのメールを無視しているわけでもない。では、そう言う人は、キーボードアレルギーかと言うとそうでもない。結構、word や excelを使いこなしている。要するに、性格そのものが、マイペースなのだ。 だが、そう言う人であっても、メールの内容によっては、自分のステイタスに何らかの影響がある場合は、即刻返事を書く。 斯様な人を友に持つと、大いに振り回される。
 また、e−mailを受信するが、全く返事をしないと言う徹底した人種も、世の中には結構存在する。要するに、文書に残すということを極度に嫌う人種だ。その様な人は、申し合わせた様に、電話で返事をしてくる。勿論、直ぐではない。とんでもない時に、「イヤー、メールを貰ったけど、忙しくて、忙しくて 」(勿論ウソ)と言って、返事なんかしなくても、適当に、巧くことが進んでいると言うタイミングを見計らって、手を煩わすことなく、自分が頭を突っ込む。そうして、自分の権利や存在価値だけを確保する。
 場合によっては、「イヤー済まん済まん、それでは、今までの経緯やら、条件やらを、一応後日のために覚書にして、お互いに署名捺印して、所持しておこう。」非常にイヤラシイ奴だ。だが、世の中は、驚くなかれ、こんないやらしい奴が意外と多いのだから、ご用心。
従って、かかる人達と交際すると、調子の良い時はよいのだが、一旦話しがこじれてくると、急に物理的距離が遠くなる。
その三 「パソコンをまめにこなすが、Face to Faceを第一に考え、実行に
移す人は、相手を思いやる気持ちが厚く、自分自身は真面目だ。」
 パソコンは、一種の筆記用具とコピー機の進化したもので、一応、紙も鉛筆も要らなくなり、膨大な書庫も要らなくなった、非常に便利なもので、更に、相手方に送る場合も封筒も切手も不要。当に、近代文明の科学の知恵の結集とも言えよう。
然も、常に、世界中とリアルタイムでオンラインである。大抵のことならば、居ながらにして、殆ど解決できる。優れものである。だが、斯かる、長所が実は、丸々短所なのだ。相手の顔色や健康状態を見ぬまま、筆談で通しきっている。実際の品物も手で触ってみることなく、送られてくる二次元の世界だけのメディアで判断している。
但し、音だけは、最終的には、スピーカーから流れでる、空気振動を通して感知している。だが、生演奏の音響とは、全く比べ物にならない。臨場感は味わえない。
 結局、総括して、PCに凝り固まっていると、人間と人間との、人間らしい付き合いが出来なくなり、相手の顔色を伺うことができない。
そこで、双方とも、一方的にメールを送りまくることになる。
人間の五感と言うものは、使わないと、その部分は退化してしまう。従って、現在のPCによるコミュニケーションが、このまま加速されると、人間は、Selfishになり、相手を思いやる気持ちが退化するのだ。
これに気がついている人達が、最近ボツボツ見かける様になったので、いくらかは、救われた気持ちだが、現実は、おかしな人間が増えて行くにちがいない。
 要するに、パソコンはパソコンとして、便利に使う反面、相手の様子を見るために足しげく、訪問する必要がある。もしも、それをしないでいると、人類は、パソコンに支配され、奴隷化されるに違いない。
 このまま、後、五年も経過すれば、今、ここで心配していた事が社会全般に広がってしまうに違いない。
 要するに、パソコンは、筆記用具の進化したものとして、人間が用いるもので、
パソコンに使われる人間になってはならないことだ。
 ここまで、お読みになった読者の皆さんの中には、「何だ、著者もパソコンを駆使しているではないか。と言うことは、パソコンに使われているのと、或る意味では同じではないか」と仰る方も多いと思います。だが、筆者は、パソコンは、便利な道具として使い。極力、相手のお顔を伺いに、出かけていますし、物を買い求めるに当たっても、実際に、自分の五感を通して、品質や性能を確かめ、納得した上で、決断を下しています。
そして、万障繰り合わせて、研究会や晩餐会などには、出席しています。要するに、スキンシップが何よりも誠実の証なのです。
                                     以上


「手賀沼の白鳥」奮闘記(1)
 山下広之


 手賀沼が汚染ワーストワンを返上したことを記念して8月23日(土)、24日(日)の2日間我孫子市民ミュージカル「北へ帰るのを忘れた白鳥」が我孫子市民会館ホールで公演されることになった。出演者は公募で200人が集まり、オーディションの結果、100人ずつのダブルキャストで行われる事になった。
 オープニングは妖精の女神役の沼尻和江さん(元我孫子合唱連盟)のソプラノ独唱から始まる。私は白鳥のリーダー役で、もともとある劇団の男性が演ずることになっていたが、歌があるので途中で辞退した。そのためミュージカルの実行委員の私が途中から引き継ぐ羽目になった。これは群れを離れて沼に住み着いて北に帰らなくなった仲間の白鳥を冷酷に扱う悪役だ。最後にノラ犬と格闘して噛み倒されることになる。
 演出は長沢けい子氏(演出家・劇団「朝の会」主宰、柏市在住)。
 練習に参加するとまず立ち方の指示で、舞台を歩き回るので姿勢が真横・真後ろから見ても良いようにまっすぐ立つ、突き出した腹で立たない、身体に比例した大声でセリフを言う、手のひらは軽く握って、など経験したことのない指示が飛んでくる。次にダンスの振り付け。これが大変だった。白鳥の群れのダンスはリーダー役の私が舞台の中央の先頭の、いわば円錐形の先端にいて3部合唱の歌を歌いながら踊る。指導は大西裕貴子先生(Y.Oダンススクール主宰)。歌の方に頭が行くと手足の動きを忘れる。動きに気をとられると歌詞を忘れてしまう。白鳥役の女性の方々は流石に自主的に応募してき方ばかりで歌はともかくダンスの呑み込みが速い。私は随分指導を受けたがさっぱりモノにならない。レオーネの団員の田村氏に練習風景をビデオで撮ってもらって家で繰り返し練習せざるを得ない。
 当初男声合唱団のメンバーを期待されていたアウトローのカラスの悪役軍団は人数が揃わず、結局女声合唱に変更して女性のメンバーに変更したが、これがものすごいジャズダンスの連続で、ダンスの心得のある女性だからこなせているものの、男性だったらこんなにうまくいかなかっただろうと思った。
 歌は作曲家丹保剛氏(我孫子在住)の全26曲のオリジナルだ。私が参加するのは5曲。独唱も2ケ所ほどある。みんな暗譜して振付けとともに歌わなければならない。また歌詞は宇内悦子氏(作詞家・我孫子在住)が作り、これは通勤の電車内で台本片手にセリフとともに暗記する毎日だ。
 毎週日曜日午前中練習する混声のコールアマフォークや、午後のアンサンブル・レオーネの練習は欠席しがちになった。東京バッハ合唱団の2回の演奏会と合宿練習は休まざるを得なくなった。今秋ドイツ演奏旅行するコーラルアーツ・ソサイアティの合宿練習も出られなかった。
 チケット(千円、全席指定)は7月1日発売されたが2週間で売切れてしまった。私が頼まれたチケットを7月11日(金)に近くの東京事務器に買いに行ったが残りの最後の1枚が買えただけだった。家族には練習風景を見てもらうしかなかった。
 


 新也の夜話
個人情報保護法が不況に竿さす           大橋新也

 個人情報保護法が遂に成立。二年後に実施されることになりました。
これがなぜ不況に竿をさす(=加速の意)のかといいますと。次の事が起こりうるからです。

1)今までのDM(ダイレクト・メール)が激減します。
  もしも、受け取った人が、発信人に対して、イチャモンをつけたら、大抵は、発信人が負けになります。
   そこで、相手が悪ければ、ゆすって来ます。従って、トラブルを事前に避けるために、従来の発信人は、新聞の折込に手段を変えます。従って、郵便局の収入ががた減りになります。印刷屋もお手上げ。反面、新聞の販売店は、ホクホクになるでしょうが、どの道折込ですので、DMほどの量にはならないでしょう。
   DM発信者は、従来は、業種別、趣味別、社会的status別などなど、色々な分野に亘ってデータを揃えて、名簿を売っている業者から、資料を買い揃えて、その中から、DMを送信していました 今回の法律の施行によって、これらの業者は、商売にならなくなります。
   反面、この種の仕事は、裏組織に潜ってしまいます。結局は、裏組織を育成する様なものです。DMは、姿が薄らいでも、反面、裏組織で入手した資料をもとに、訪問販売が増える筈。そこで、益々、家に鍵をかけて、出かけると、危険度が高くなります。下手に、不審者に声をかけたら、反対に身体に被害を受ける場合も考えられます。
  デパートの外商は、益々閑古鳥が鳴きます。
   あまりにも、ものごと、徹底すると、却ってデメリットが多くなります。それがこの世の中なのです。

2)人間社会は、法律でなければ、とりしまれないと言う国ほど、国内は、乱れているのです。法律よりも道徳が先行しなければならないのです。

3)確かに、カレンダーをめくるたんびに、どんどん不景気になっているのが現実の日本の姿です。景気、不景気は、元々その原点を探れば、人為的なものです。
   昨日、ある金融機関の外交が、我が家に尋ねてきました。冗談半分に次の様に話をしましたら、表面上は納得して帰りました。あのバブルのまだ始めの頃、丁度中曽根内閣の頃、長年、構造不況で意気消沈していた日本の産 業界。総理の一声で、ゼネコンが一斉に立ち上がり、系列の銀行と組んで、信用のあるなしに無関係。

  やたらに、ドカンドカンと金を貸し、すかさず、その後に地上げ屋が暗躍。銀行も、同じ面積の土地担保に、水増し評価をし、あっと言う間に、かるめ焼きや綿あめの様に、路線価が上がりつづけ、あれよあれよと、バブル成金が増えたのです。
  続いて、絵画も、世界で一番高値で落札。あちらこちらに、近代建築の美術館が建てられました。世界銀行からの巨額の債務も、難なく返済できたのでした。
  各省庁は、税金の自然増収と言って、毎晩ドンチャン騒ぎ。
  処が、慶応出身のオボッチャマ総理、橋本さんが、サミットで、欧米から、銀行の自己資金の保有率を、言われるままに了承したのが運の着き。日本の全銀行は、虚勢された牛の様に静かになり、今尚、続く、日本の不況への火蓋が切って落とされたのです。
  そこで、件の銀行の外交に、続けて次の様に言いました。
  「銀行は、世の中を景気良くするのも、悪くするのも自由自在なんだから、思い切って、この辺りで、大勝負にでたら、どうかね。帰ったら、支店長に、俺がこう言っていたと言いなさい。」
  しかし、嘗ての銀行員と違って、今の連中は、虚勢牛。飲み屋の縄のれんみたいで、全く手ごたえがなく。只管、ニヤニヤ営業笑い。そそくさと引き上げてゆきました。
 今日の処の結論は、兎に角、日本経済は、99%回復不可能でしょう。残念だが、仕方がない。
皆さん、世の中は、日本だけではありませんよ、島国への執着を断てば、まだまだ泳ぐ場所は、沢山あります。e−mailは、国境を越えて、大活躍。これからは、文句を言いながらでも、諸外国と交流を密接にする必要があると思います。


歌おう 東京少年少女合唱隊 50年の挑戦を読んで
(発行:東京少年少女合唱隊LC基金、発売:朝日新聞社、2001年8月10日発行、3000円、285ページ)
山下広之

 

東京少年少女合唱隊はわが国における児童合唱の草分けとして1951年(昭和26年)7月、当時音楽教師だった長谷川新一氏によって設立された。当初は30人からなる少年合唱隊だったが、3年後に東京少女合唱隊も作り、その10年後に東京少年少女合唱隊として合併して今日に至っている。
 本書はこの合唱団の50年の歴史を創立者で指導者だった長谷川新一氏の思い出語りを中心に書かれており、これに娘で常任指揮者を引き継いだ長谷川冴子氏、その妹で副指揮者の長谷川久恵氏の思いでも加え、さらに指導者の一人で現在茨城大学大学院教授(音楽教育学)の泉靖彦氏の思い出の文章その他が添えられて構成されている。
 合唱界にあって趣味としてではあるけれども日夜合唱練習に明け暮れているものの一人として私は興味深く本書を読んだ。そしてこの東京少年少女合唱隊がいかに優れた、恵まれた合唱団かということに深く思い至った。まず設立からすばらしい支援が背景にあった。顧問一覧をみると9名の顧問の中に東京都教育庁、文部省事務官(2名)、NHK、全日本合唱連盟、キングレコードなどの方々が名前を連ねており、音楽評論家の堀内敬三氏の名前も見える。こうした期待された形でスタートし、創立3年後には新大久保に練習スタジオが新築され、12年目には山中湖寮スタジオも作り、相模湖にも寮を持つなど恵まれた練習環境を享受している。勿論このような恵まれた環境は合唱団自らの努力と才覚で作り出した賜であり、このようなことができる実力に敬意を表さざるを得ない。
 団員は小学生から変声期を迎える前までの中学生まで位であるから毎年入れ替わっていくわけである。しかしそういった子供たちを訓練してメンバーに引き上げ、世界的な水準を維持していくのだから相当な努力がなされていると思われる。そういう成果がすぐに表れて、創立1年半後にはNHKテレビに出演したり、レコード吹込みを行ったり国内各地へ演奏旅行したりしている。海外演奏は1964年のアメリカ公演を皮切りに26回を数え、その間年1回の定期演奏会を開き2002年で51回を数えている。
 このような優れた活動を行ってきた合唱団の50年の歴史を本書は紹介しているわけで、日本の合唱音楽活動の貴重な記録として今後残されてゆくものと思われる。合唱を歌っている一人として誠に同慶に堪えないし、いい勉強をしたと思っている。
 私も東京バッハ合唱団員として昨年創立40周年記念誌(300ページ)を編集員の一人として作った経験がある。その中で40年の通史の編集作業をしたが91回の定期演奏会を含め、設立の経緯から行事に至るまで合唱団の記録を44ページの歴史年表にまとめた。これはそのボリュームといい、内容といい、合唱団の活動の中身のレベルの高低はともかく、一応自分自身の作業として思い出に残るものだったとひそかに思っている。
以上


「僕は、涙の出ない目で泣いた」
(川畠成道著、兜}桑社刊、2000年12月発行、1300円)を読んで              山下広之


 ここに1枚のCDがある。「アヴェ・マリア」(本書と同じ時期2000年12月に日本ビクターが発売、ヴァイオリン・川畠成道)である。美しいヴァイオリンの独奏曲が集められている。合唱団・コーラル・アーツ・ソサイアティのメンバーの方から紹介されたCDである。ヴァイオリンを弾いているのは32歳の盲目のヴァイオリニスト川畠成道である。前年の1999年に初めてのCD「歌の翼に」(ビクター)を発売して10万枚以上を売り、クラシック部門のヒットチャート1位になったものの第2弾である。これほど注目されているヴァイオリニストが書いた自伝が本書である。
 川畠成道氏はヴァイオリニストを父に生まれた。8歳のときに祖父母のアメリカ旅行についていってロサンゼルスのディズニーランドを見た後に風邪を引いて飲んだ風邪薬の副作用で身体の皮膚が溶け去るという病気に見舞われ、九死に一生を得たが、目の角膜も溶けて盲目となり、1時間に1回は自分の体液から創った人工の涙を目に点眼してやらなければならない運命になった。初めは悲嘆に暮れる毎日であったが、ヴァイオリン演奏に力を入れるようになり、桐朋学園高校から桐朋学園大学に学び、江藤俊哉氏に教えを受けて卒業と同時にロンドンの王立音楽院に留学、盲目なので母が同行してくれて練習に励み、同校を主席で卒業、同校創立175周年記念演奏会で独奏者を務める栄誉を担った。
 卒業の翌年日本のサントリーホールで初舞台を踏み、小林研一郎指揮日本フィルハーモニーとメンデルスゾーン「ヴァイオリン協奏曲」を演奏した。同年紀尾井ホールで初リサイタルを開き、その後日本各地で演奏活動を行っている。その演奏会は日本ユニシスが後援している。
 本書はその成功までの苦難の道を回顧したものであるが、著者がヴァイオリンの曲を演奏するにはまず暗譜から始めなければならない点に健常者との違う点がある。これを克服していくわけであるから、われわれが曲を暗譜する努力などまだ序の口かもしれない。また演奏する舞台ではその音楽に浸りきることの大切さを教えてくれた。音楽をするものにとってプロ・アマを問わず懸命な姿勢が必要であることを改めて認識した。





執筆者の紹介

大橋新風
大橋新也   寶莱徳洋行有限公司・香港風帆廠日本代表。文京学院大学生涯学習センター講師。東京都葛飾区在住。多彩な趣味で幅広く活         躍。大橋新風の名前で川柳も発表。

山下広之   男声合唱団アンサンブル・レオーネ団員。我孫子市湖北台在住。文京学院大学生涯学習センターキャリアカウンセラー。?〇四(七         一八八)一六七三   






    創造の白樺

  平成15年8月(夏号)  通巻第9号  編集・発行  山下広之

  〒270-1132 我孫子市湖北台2−7−25  tel/fax  04(7188)1673

   E-mail yamashitah@dream.com



 

 

 



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