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アンサンブル・レオーネ/「創造の白樺」

 


 アンサンブル・レオーネの同人誌「創造の白樺」が平成14年4月に創刊しました。このページには第8号を掲示します。

 第12号は、下記をご覧下さい。

   平成16年1月号(第12号、冬号)

   

      

     

創造の白樺



               平成十五年六月(初夏号)


         目  次

1.新風川柳                      大橋新風              
2.昭和初期の貿易先駆者達の苦労と勤勉なユダヤ商人(5)  大橋新也   
3.母山下文枝の生涯                   山下広之   
4.新也の夜話  (1)私のクルマ運転史         大橋新也   
5.新也の夜話  (2)ウイルスについて      
6.新也の夜話  (3)アルミについて  
7.河口湖「合唱の家・おおば」で合宿          山下広之   
8.執筆者の紹介                            


新 風 川 柳            

          大橋新風

    創造の 白樺並木 果てしなく」

    バブル坂 登りつめれば 不況坂

    カレンダー めくるその都度 不況増す

    個人情報 保護が過ぎれば 不況増す

    不況でも 税金だけは 取りたがり

    ほっとけば なるようになる お節介

    セシボンと お世辞をいわれ マジになり

    お医者さん 治せぬくせに 治すふり

    藪医者も 治ったとたん 名医かな

    給料も パソコン並みに 圧縮か

    フランス語 五七五には ビッタシか

    きれいごと 言っているほど 裏街道

    バブル山 登ってみれば 蟻地獄

    銀行は 公的資金 軽く見る

    宝くじ たの字をぬけば からくじよ

    かねですむ そうもいかぬと 石頭

    大江戸線 外へ出るまで もういいかい

    うぐいすも 信心深く ほう法華経

 昭和初期の貿易先駆者達の苦労と勤勉なユダヤ商人(5)
アメリカンスピリッツは一ドル紙幣にその全てが表現されている。
〜宮武英丸氏の手記から〜                  
                            大橋新也

9)「アドラ氏貿易使節団員として来日」

 
1947年、私は8月15日に上京し、翌朝羽田空港へタクシーで出迎えに行きましたら、空港は完全に米軍の管理下にありね飛行場の入り口で米軍人が空港への出入りを厳しくチェックしておりました。
 私は幸い前述のアドラさんからのレターと電報を携えていましたので、それを提示しましたら、O.K.してくれました。
 当時の羽田空港は、軍専用で、一般送迎用の施設は全く無かったのです。

※ 羽田空港と同様、西多摩の福生に隣接する「横田飛行場」、「立川飛行場」
東京の相模原市と神奈川の座間市に跨って「米軍のキャンプ」そして「厚木飛行場」
横須賀の嘗ての海軍の軍港は、米国太平洋艦隊の基地、等々、総てが接収されました。ホテル関係では、一番に帝国ホテルが駐留軍関係者の専用ホテルに接収され、
国鉄・東京駅に近い、丸の内ホテルは、外国人バイヤー専用ホテルに、更に、
今回、米国貿易使節団の来日に当たり、元、宮内庁林野局庁舎も接収され、そこを改造して、パレスホテルと名うって、貿易使節団専用ホテルとなりました。
ハイヤーは、当時の新型のフォードが、バイヤー専用車と一目判るように、車両ナンバーは30000代の数字が当てられていました。
因みに、日本の官庁用の車両のナンバーは40000代の数字でした。しかし、
みんな旧式の米車が多く、国産乗用車と言えば、トヨタでした。
その頃、市内を走る路線バスは、米軍のトラックを改造したボンネット型のバスと銀座通りを颯爽と走る、これまた、米軍のトレーラー・トラックを改造しためっぽう長い大型バスでした。
国鉄は、空襲から高級客車を守るために、京成電鉄の上野線の上野〜寛永寺間の
トンネル区間を一時占有とし、京浜東北線の下り線路にポイントを着け、斜め横からトンネル内に引き込み線を敷設、そこに二列に処狭しお召し列車をはじめ、一等車両を格納しました。それらは、米陸軍が、第8軍であったため、展望車の後部デッキには、オクタゴンと記名した八角形のトレイン・マークをつけて、斯かる高級車両は、総て、占領軍の専用列車として徴用されました。
東京駅では、従来の一等待合室は、総て、占領軍関係者専用待合室となりました。
又、赤坂にあった「山王ホテル」は、米国軍士官関係者の公式専用ホテルとなり、
十数年後、旧持ち主に返還、代替として、その別館である、南麻布の「ニュー山王ホテル」は、事実上現在も治外法権で、横須賀基地及び横田基地から専用のリムジン・バスで、米海空軍関係者の送迎が行われています。
施設内の料金表は、総て米ドル建てです。日本の物価に比べて、驚くほど安価であります。一昨年、筆者が友人の某国際弁護士からハロウイン・パーティーに其処に招かれた時、「ここはアメリカそのまのだなあ」と思いました。
さて、話を戻しましょう。羽田空港の飛行機の発着場の近くに小さなプラット・ホームがありましたので、そこでタンシーから下車し、勿論タクシーを待たせておくつもりでおりました。そこへ米軍人が近づき、ここではタクシーを待たす事は禁止されているので乗り捨てて直ぐに車を返す様に告げられました。
 帰りに、どうすれば良いか心配でしたが、命令通りにするより他ありませんでした。私の他に出迎えの日本人は一人もいなかったのです。間もなくして四発のボーイング・ダブルデッキのストラトクルーザー(B29を旅客機に改造したもの)が滑走路にランディング。滑走路の端から到着ゲイトまではバスが乗客を運んできました。総勢100名余の貿易使節団です。
 バスは私の立っているプラット・ホームの前まできて停まりました。降りて来る人達の中に私はアドラさんを見つけました。懐かしさと嬉しさが交互に胸に込み上げて、何とも言いようのない胸の高まりを覚えました。
 使節団員は直ちに特別に用意された大型バスに乗り換え、所定の宿舎に向かう事になっている事を知りました。そこで、私は先程タクシーを待たそうとして米軍人にタクシーを返す様に言われた事をアドラ氏に話しましたら、アドラ氏は係員にその話をなされて、了承を戴き、私も同じバスに乗せてもらいアドラ氏の隣に腰掛させてもらい、ほっと安心致しました。
 行き先は貿易使節団員の為に特別に宿舎として用意された宮城のお堀りに面したパレス・ホテル(帝室林野局をホテルに改造)でした。その日の午後、早速、商工省(後の通産省)が用意した貿易展示室へ行きました。そこには、戦争の為、本来ならば米国向けとして製造された商品で船積未済のまま終戦を迎えた在庫品の一覧表が展示してありましたが、販売価格はブランクの侭でした。係員に価格のことを尋ねましたら、「ドル建ての販売価格は一両日中に決まります」との事でした。
 しかし、これに就いて後日になって聞いた事ですが、その価格決定には今回到着した使節団員の中で、それ等の商品を戦前に取り扱っていた信望のたる方々のご意見を参考にドル建て価格が決定された模様です。この時点では日米間に正式な交換レートは設定されていませんでした。
 18日夕刻、名古屋へ帰る為、東京駅へ行き、先ずアドラさんの切符を買う為、進駐軍専用(Military Only)の窓口に行きましたら思わぬ事に出会いました。
 話を先に進める前に一寸ご説明致しましょう。貿易使節団員には米国政府から日本国に滞在中の行動の規則や心得、その他諸々の事項を記した小冊子(マニュアル)が予め手渡しされていました。
 それによると、概ね駐留軍人と同等のステイタスを保持しています。
即ち、
(1)日本国内の移動の場合、列車を利用する時は、進駐軍専用の御用列車を利用すること。(列車には往年の一等車と同じ様に全車両に白い帯線が付けられていて、一目で進駐軍専用列車である事がわかる)
(2)米弗の他は保持しないことる
(日本の通貨は持てない、何でも米弗で済ますこと。)

 さて、話を戻しましょう。アドラさんが名古屋行きの切符を買う為にマニュアル通りに窓口で米弗紙幣を出されましたら、出札係が「ここではミリタリー・ス
クリプト(米軍票=War−note)でしか切符を売る事はできない」と発売を断るのです。そこで、当然のこと、押し問答をしたのですが、結局は引き下がる他なかったのでした。
 そこで、アドラさんは仕方なく、だが運良く、後列に並んでいた某米軍将官に事情を話して、切符代だけ、米弗を軍票に交換してもらい、やっとのことで名古屋行の乗車券を手に入れたと言うわけでした。だが、これは例のマニュアルに違反した言わば違法行為なのでした。

 その後直ぐに、アドラさんは私に電報局へ案内する様に言われましたので、駅構内の郵便局へ行き、そこでアドラさんは、総司令部(General  Headquaters)のMcArther元帥宛に、今し方駅でのトラブルの件「これこれしかじかの事情で切符が買えなかったのて直ちに改善する様に」と打電したのでした。
 こうした速やかなる抗議行動はアメリカ人でなければ出来ないことで、改めてアドラさんの信念に心を打たれました。
 斯様なわけで、私はアドラさんとは別の列車で名古屋へ帰りました。
 だが、先着のアドラさんは私の到着まで待っておられました。午前4時頃でした。
 一足先にアドラさんの乗った進駐軍専用列車は午前2時30分頃名古屋に着いていました。
 名古屋では、貿易使節団員の宿泊ホテルは米軍将校専用のトキワ・ホテルに指定されていましたので、其処へ案内致しました。
 アドラさんは仮眠された後、9時頃にダイニング・ルームへ行かれたら入口に係長の下士官がいて、珍しく民間人の客を見て話し掛けてきたそうです。そうして「何の仕事でこられたのか」と尋ねられたので、「陶磁器製品を買い付けに来た」と話をしたら、係長は「私の知っている良い店がありますので、ご紹介しましょう」と言ったので、そこで、アドラさんは「どういう店ですか」と尋ねましたら、彼は「Fair Co.です」と言ったのです。
 アドラさんは吃驚し「それは私の友人の会社で朝食を済ませたら其処に行く予定です。」と言われたら、彼も吃驚、誠に珍しい出会いだったので、双方がビックリしたそうです。
 その翌日、私はアドラさんに誘われて朝食をご一緒するために、そのダイニングルームへ行きましたら、その下士官に出会い、私も吃驚したのです
 実はこの方は度々私のフェア・ストアーへ土産物を買いに来て下さったお方で、私も大変親しくなっており、その方ご夫妻と何時も一緒にこられた友人ご夫妻共々スキヤキ・ディナーに自宅へご招待したのが、前年の秋でした。
と申しますのも、フェア・ストアーを開店以来二年の月日の内で、自宅へ夕食にお招きしたのは、後にも先にもこのお二方ご夫妻だけでした。
 さて、こうしてアドラさんをフェア・ストアーへご案内しましたら、先ず土産にロイヤル・タイプライターを戴き、アドラさんの温かいお心遣いに感激しました。(当時は、タイプライターを入手するには、とても困難な時代でした。)
 午前中は思い出話しや戦争中の事、双方の家族の近況などでつぶれてしまいました。
 午後になると、彼方此方の新聞記者が取材のために駆けつけました。それと言うのも、アドラさんが名古屋へ来られた二番目の貿易使節団員だったからなのです。
  その後、先ず仕事を始める前にアドラさんから私の会社の組織を尋ねられました。当時は、まだ宮武個人営業の小売店として届出てありましたので、その様に申し上げ、出資金は澤田さんと同額、月給も同額、但し、家賃は無料であると話しましたら、アドラさんが貿易開始に当たり会社組織に改め、株の持分を決める様に言われました。そこで、先ずアドラさんの意向を確かめましたら、アドラさんは率直に「80/20にしら良い」と申されました。理由は、「僕は君と商売をするので澤田さんとは無関係。彼は経理には経験があるかも知れないが僕の商売には直接関係ないし、その仕事は他の人で代替出来る。僕は飽くまでも君と商売するのだ。Miyatakeさんの代替はないのだ。」と強調なされました。
 アドラさんにとっては、「澤田さんは見ず知らずの人で、その人に自分の恩恵を与えることはない。」と考えておられたのです。また、「給与の比率は3対2にすべきである。」と言われました。アドラさんは、「今、茲に澤田さんを呼んで僕から直接話しても良い。」と言われましたが、澤田さんなは英語がそれ程通じないので私が後で澤田さんにお話しする事にしてアドラさんはホテルに帰られました。
 その後、私は澤田さんに、この話しわ致しましたが澤田さんはご自分の意見を述べられず無言の侭でした。私自身80/20の比率では澤田さんにお気の毒だと思いまして70/30の比率でアドラさんの諒解を得る様、話しをしてみましょうと言って別れました。
 翌日アドラさんにその話しをしましたらね「僕は澤田さんの持分は20%で十分だと思っているけれど、君が70/30で良いと思うなら、それで決めなさい。」と言われました。
 その直後に資本金100万円の株式会社フェア商会を設立、私が70万円を澤田さんが30万円を払い込みました。
 さて、仕事始めに先ず四日市へ行き、各工場を廻りましたが、殆どの工場が戦災を受けていて、直ぐには生産に取り掛かれない状態でした。当時は原材料の入手が困難を窮め、その上、窯釜に不可欠の燃料である石炭の入手が困難、やむを得ず石炭の代わりに雑木を用いました。従って発注しても納品するまでには、四、五ヶ月を要したのです。然し、どのメーカーも注文を貰って戦後の再出発をしたい方ばかりで、先方の熱意がヒシヒシと感じられました。
 幸い、数ヶ月前にアドラさんから予め指示されていた10点余りの見本は既に用意が出来ていました。それ故、直ちに商談を進める事が出来ました。
 然し、現在の常識では考えられないことですが、当時としては、当然な手続きとして次の様なステップが必要でした。即ち、例えば、メーカーとの間で注文数や値段は決めても直ぐに仕事(製造)に取り掛かる事は出来なかったのです。
 具体的に申しますと、先ず、必要な関係書類を英文で作成し、それに現物見本を添付して、交易営団に提出。営団でその内容と現物が正当と判断されれば、第一関門がパスし、次にそれをGHQ管理下の「貿易公団」(商工省の外郭団体・在東京)へ送り、そこで最終的にOKされ、各々の私的品番(Item Number)の他にGHQの承認番号(xxxx-xxとか)が下され、それで初めてメーカーとの正式な取引が成立した訳です。(船積みの際、インヴォイスのItem numberの欄にGHQの承認番号がタイプされていない場合は税関はED<輸出免状>にOKの赤いスタンプを押してくれませんでした。)
 兎に角、こうしてGHQの承認を得るまでに一ヶ月以上かかりました。
 アドラさんは名古屋では、戦後初めて商談を成立されたバイヤーでした。然し、買付けられた商品が最初に船積みされる迄には四、五ヶ月も要したのでした。
 そこで、この長いブランクを埋める為に、私が考えたのが戦時中に滞貨になっていた、ノリタケのディナーセット(93ピース)で、商工省の展示室に公開されているストック品の事です。アドラさんの会社はフローリスト向け商品が専門で洋食器類とは全然無縁でしたが、私は戦前、ストロング商会に在職中に取り扱った経験とスーベニア・ショップで取り扱った両方の経験から、これは必ず売れる商品であると思いました。アメリカ市場では戦時中の空白で品不足になっているに違いない、と思いました。
 また、当時の国内のインフレーションは激しく諸物価は上昇の一途でした。
 この様な情勢を考えると、戦時中に滞貨となった日本のブランド品・ノリタケのディナー・セットを買付けても危険は無いと感じていました。先ず第一に早く買い付けないと他のバイヤーに買い取られる恐れがある事。他に競争品がなく、家庭の必需品で長期間保管しても品質に変化がない事を考え、アドラさんに「このストック品を買付けてはどうか」と提案したのです。
 この時点では、アドラさんは全くの素人で洋食器を取扱われた経験もなければ売り込み先の目当ても皆無ですが、私の提案を熟慮された上で受け入れられ、1種類・300セット宛を3種類、併せて計900セットを買い上げられたのです。この時決定された弗価格は1セット$15.60ですから、合計$14,000.日本円にして500万円超。これに米国での輸入税・70%と日本からの運賃その他諸掛りを加算すると1,000万円を超えました。当時としては、莫大な投資でしたが、アドラさんは私を信頼して買付けられた訳です。
 アドラさんはねニューヨークへ帰られてからセールスマンを探され、元ノリタケを停年退職された Mr.Klineを雇い入れる事になされ、新たに、Adler と Klineの二文字を合わせて、
Adline Trading Co.を設立なされた訳です。
この様にして、前述の見込みで買い付けがなされたデイナー・セットは飛ぶように売れ、新会社も軌道に乗ったのです。これが契機でディナー・セットを取り扱われる様になり、更に Mr. Klineの提案で戦前にノリタケが取り扱っていた高級な陶磁器製の手工芸品を取扱われる様になり、急速に取引が拡大しました。
 この間、従来からの花屋関係商品も販路が次第に拡大され、取扱高も年々増加しました。この様にして1948年(昭和23年)以降五、六年は希有成長を遂げましたが、その後は年を逐って価格競争が激しくなりました。
 Adline Trading Co.創立10年が経過した頃に残念な事にMr.Klineが病死され、その後を引き継ぐ適当な人物が見つからなかったので、Adlineを閉鎖して、
M.Adler‘s Sons.Inc.に統合されたのです。
 アドラさんの生涯で、この期間が最も充実した人生であつたと思いますし、私も同様でした。(以下次号)

    




母山下文枝の生涯
                       山下広之 

 
岐阜県瑞浪市は名古屋から中央線で中津川、塩尻の方面に向かった所にある町である。JR中央線が名古屋を出ると、沿線の右側に美しい渓流を見ることができる。虎古渓といわれる美しい眺めだ。これを通り抜けて多治見を過ぎると瑞浪の駅に着く。陶器の町であった。土岐町はその中心地で町の中心を流れる土岐川に面した静かな山間の町である。また町のはずれには中世以来土岐氏の居城であった鶴ケ城の跡を望むことができる。瑞浪を更に通り抜けるとまた渓流の美しい中津川に着く。中津川の先は木曽で、山深い木曽の御嶽山を見ることができる。文枝はこの町の実業家日比野徳太郎氏の7人兄妹の次女として大正二年(1913年)9月5日に生まれた。
 父の徳太郎氏は(私の祖父に当たるわけであるが)いろいろな事業を興しては失.することが多く浮き沈みの多い生活だったらしい。映画館を経営していた時は文枝はいつもタダで映画を見れて良かったと後年話していたのを覚えている。いずれにしても徳太郎氏は事業の成功を夢見て日夜苦心していたらしい。一度文枝が徳太郎.の寝顔を見る機会があった時、目はかっと開いたまま寝入っていたそうで、びくりして母親のたまに報告すると、「そうや、お父さんは事業の事を寝てまでも考えていらっせる」と肯定したそうである。そんな苦労の果てに徳太郎氏は木毛製造事業で成功した。木毛は当時名古屋や多治見を中心に生産される陶器の荷造りに使う緩衝材で、現在では発泡スチロ−ルにとってかわられているが、時々まだ木で作ったきしめんのような緩衝物を見掛けることがあるが、それである。これで日比野家の家運は隆盛した。徳太郎氏は何一つ不自由の無い晩年を送った。
 文枝は次女として気ままに成長した。頭は良かったらしく小学校、女学校をとうして胸をはって学校に通ったらしい。当時珍しいヴァイオリンなども親にねだって買ってもらい、多少は弾いてハイカラなまねをしたということだ。そのような跳ねっ返りのところもあったが、まずまずの学校生活を楽しんでいた。後年一つだけどうしても追いつけなかった優秀な男の子がいたと文枝が口癖のように話していたのが、伊藤律という同級生だったらしい。彼は勉強も勿論できたが、考え深い子で、その点一般の子と一味違った風格を持っていた。後年伊藤律は日本共産党の大物になり、その後徳田球一氏との葛藤が噂されたこともあったが、その後世の中の表舞台から消えていったけれども、戦後の共産党の歴史を賑わした伝説的な人である。
 
山下文治との結婚
 岐阜県立多治見女学校を卒業してすぐに文枝は近衛歩兵第三連隊本部付の下士官、山下文治と結婚した。挙式は昭和7年2月19日で、文枝が18歳の時であった。当時は一般に女性の結婚は早く、18歳というのもごく一般的なものであったのであろう。 山下文治と知り合ったのは文枝の姉の紹介だった。姉の四記子は同じ陸軍近衛歩兵連隊の三輪高一氏に嫁いでいた。この三輪氏の紹介で山下文治と知り合ったのであった。
 夫となった山下文治は長野県信濃町柏原出身の青年士官で結婚当時31歳、苦学力行して陸軍歩兵学校を卒業した元気のいい男だった。文治は明治34年7月12日信越線柏原(現在の黒姫)の寒村で生まれた。ここは黒姫高原、妙高山、戸隠山、飯綱山などに囲まれ、近くに野尻湖を控える風光明媚な村である。天正5年(1577年)、織田信長が大阪の石山本願寺を焼き討ちした時、本願寺の僧兵だった多くの人々は難を逃れ大阪から三河を通って信濃の国まで落ち延びた。このメンバーが山下家の祖先で、小林、若月、月原といった面々が一緒に信濃の国まで流れていった。柏原という越後との国境の土地に至った時、もう季節は真冬で雪が深く、これ以上一歩も進めなくなりここに住みついたといわれている。以後代々山下家は刀鍛冶として生計を立て、越後の高田藩に刀を納めていた。明治維新以降、普通の鍛冶屋として農機具を作って文治の代に至った。またこのメンバーの中の小林家は農家となり、江戸時代に至って俳人の小林一茶を生み出すことになる。
 文治の父、亀次郎は別名仏の亀さんとよばれるほどの好人物で、他人に頼まれればいやとは言えない性格で、借金の保証人、貸倒れ等による損失で相当の財産を失い、加えて老母の他五男三女という大家族を抱えて文字どうり清貧の暮らしであった。しかし人格は高潔で他人から後ろ指をさされたりすることのない、平和な家庭生活を送っていた。
 文治はこの山下家の四男として生まれた。学校から帰ると妹を背中に子守をしながら宿題をやった。小学校六年になると家の鍛冶屋の手伝いをやった。しかし小学校時代の6年間、首席で級長を通した。家の事情で中学校に進学できなかったので、補習学校に通い、卒業時には上水内郡長、早川繁雄氏の臨席のもとで早川氏自筆の「自彊不息」と書かれた金蒔絵の硯箱を授与されるという光栄に浴した。
 20歳になって徴兵検査を受け、甲種合格となり、新潟県の高田の連隊に入隊した。そしてそのまま軍人生活を続けていたのである。

長女美智子の出産
 結婚式を挙げた後、文枝は生まれ故郷を後にして夫とともに上京した。東海道線の熱海〜函南間の丹那トンネルが開通したのが昭和9年だから、当時は沼津〜国府津を廻る遠まわりが東海道本線の頃である。そして二人は東京都杉並区天沼一丁目に新居を構えた。生まれて始めての東京生活で文枝はずいぶんとまどったことであろう。夫の文治は赤坂の近衛第三連隊本部へ毎日通勤していた。翌昭和9年1月、長女の美智子が日本赤十字病院で誕生し、にわかに家の中がにぎやかになった。住まいももう少し広い、同じ町内の天沼二丁目に移った。そして翌年の昭和九年長男の俊文を同じ日赤病院で生んだ。
 文治も人事異動で昭和10年に近衛三連隊から明治大学専門部の教練の教官として赴任することになった。若い大学生相手の教員生活は軍隊生活とは別の味わいがあったことだろう。軍から大学に移って生活も落ち着いたのも束の間、四歳になった長男の俊文が疫痢にかかって一夜にして死んでしまった。昨夜は元気だった長男が翌朝は冷たい骸となってしまったのは、若い夫婦、特に妻の文枝にとっては最大の痛恨事だったかもしれない。
 
太平洋戦争の勃発
 昭和12年7月20日、日支事変が勃発した。そして状況は次第に重大化して昭和16年7月20日、遂に文治に招集令状がきた。そして新潟県高田市の部隊に応招した。約2年近い軍生活の後、昭和18年4月に招集解除となり帰京して久し振りの家族水いらずの生活に戻った。しかしわずか7ケ月後、警備の動員を受けて文治は東京・練馬の飛行場の警備に当たることとなった。戦局も益々複雑化し、食料事情も悪化して家の台所をあずかる主婦の苦労は一層大きくなった。大きなリュックを背負って、幼児だった次男の広之の手をひいて千葉、茨城方面に一日がかり、時には農家に泊まったりして買い出しに行くことも多くなった。その頃住まいは練馬区中村町にあり、JR高田馬場に近いところで、米軍による連夜の空襲が激しかった。空襲警報が鳴ると、子供たちの手をひいて庭先の防空壕へ逃げ込む、しまいには防空壕も役にたたないと畑の中に布団を持ち出して避難するという状況になっていた。

終戦と再び瑞浪へ
 
昭和20年8月15日終戦となり平和が訪れた。翌月の9月20日に次女智恵子を産んでいる。翌年(昭和21年)1月文枝の実弟日比野三郎が岐阜県瑞浪市から山下家を訪ねてきた。三郎氏も軍人で陸軍士官学校第53期の陸軍少佐で、フィリッピン戦線から帰還してきたばかりだった。三郎氏の用件は瑞浪の実家の木毛製造事業が、父の徳太郎氏が老齢のため思うに任せず、加えて長男の馨氏は中支に出征していたが、戦後になっても消息不明で、もう生還は期待できないので若い文治と三郎で共同して運営して父母を助けたいので、瑞浪へ来て欲しい、そして事務全般をみて欲しいということであった。
 文治は明治大学の引き止めを振り切って退職し、4月1から文枝と子供3人を連れて瑞浪へ移住した。ところが丁度同じ日に長男の馨がひょっこりと復員してきたのである。そのため文治がやってきた意味がなくなってしまった。従って文治は経営をみるのではなく、工場の現場で働くことになってしまった。
 この時点から再び東京の明治大学に復帰する昭和24年6月までの3年3ケ月は文枝にとってはつらい日々だった。自分の実家の事情で文治をいろいろ引き回した末、かえって家族を不幸な目に合わせるという負い目が文枝をさいなんだと思われる。

再び東京へ
 このようにして郷里の岐阜県瑞浪市で戦後の混乱の一時期を過ごした一家は再び上京することになった。さしあたりの住いは明治大学の農学部校舎のある川崎市生田の生田校舎の中に定めた。ここで3人の子供は順調に育っていった。この校舎の中に7年半住んだ後、同じ生田駅の近くに家を新築して移り住んだ。
 家を新築した昭和32年から文枝の平穏な生活が続いた。この間長女の美智子は学校の教員として活躍しつつ縁あって土川政夫氏と結婚し、2人の子供に恵まれた。長男の俊文は夭折したが次男の広之は日立製作所に就職し上田淑子と結婚し、これも2人の子供に恵まれていた。次女の智恵子は渡邊英司氏と結婚し、1人の子供を持ち、合計5人の孫に恵まれたことになる。

文枝の趣味
 趣味の一つは絵を画くことだった。水彩画で暇さえあれば絵筆を握っていた。描き終わった絵は額に入れてしまっておいた。
 庭木の手入れも趣味のひとつだった。天気が良い日には庭に出て草木をいじるのを日課としていた。
 美術装飾品を飾るのも一つの趣味だった。それは決して高価なものでなく、自分の出せる範囲でのつつましいもので、イタリア製の陶器とか安い彫刻だったりするもので、あくまで庭の隅に置いておく程度のものであった。
 何よりも文枝の心を支配していたものは時代に対してどう生きるかということだったと思う。若くして軍人の夫に嫁ぎ、苦労して戦中を乗り越えたあとは終戦による世の中の大変革であった。それこそ今までの価値観がひっくり返ってしまった。その混乱の中で大人たちが一様に自信をうしなっていった。特に子供の教育においてそうだった。しかし文枝はその自信をつけるべく必死に模索した。教育は、ひいては世の中を生きる大人はどうあるべきか、というテ−マを真剣に模索した結果が本書に記録したような人生の生き方を模索した多くの言葉ではなかっただろうか。

軽薄な風潮に背を向けて
 世の中は朝鮮戦争による特需景気と、その後に続く好景気の連続で沸き返り、消費は美徳の名のもとに、軽佻浮薄の浮かれた考え方が充満してきていた。そういう中で戦中戦後の生き方に合わせてきた文枝は戸惑い、悲しみ、反発さえ感じていた。むしろ世の中の動きに背を向けて、ひたすら自分の世界に引きこもってしまったといえる。
 唯一、ニクソンショック、石油ショックの時代は戦前派が「ほらごらんなさい。うかれていてはだめですよ」と口に出来た唯一の時だったかもしれない。
 世はいつまでたっても続く平成の好景気が続いていた。この平成の景気が現在のような状態に落ち込むとは予想もできなかった。もう古い考えは完全に必要無い時代に移ったかにみえた。その意味では失意のうちにだんだん体力・気力も衰えていったのかもしれない。だんだんと病気がちになり寝込むことが多くなった。特に持病である高血圧の症状がひどくなっていった。
 平成2年(76歳)の初め、高血圧で倒れ、近くの市民病院に入院した。1週間ほど入院したのち症状が回復したとして退院した。しかし夫の文治をはじめいつも見慣れている家族からみると決していい状態ではないことがわかっていた。しかし市民病院では重患者でないと入院は続けられないという規定で、八方手を尽くした結果、相模原市にある、私立の相模原南病院に入院させることができた。しかしその時点ではもう手遅れだった。入院して間もなく脳梗塞の症状がでて次第に意識が遠のいていった。そして完全に意識不明の植物人間になってしまった。

終焉
 それから1年半の間、相模原南病院の病室に横たわったままの状態が続いた。栄養は鼻から注入された。付添いの女性の協力も得て24時間体制で病状をみ守った。半年もたつと世の埃から全く隔離された状態のせいか顔をはじめ手足の汚れや日焼けといったものが完全になくなって肌の色は白くすべすべしてきて、頬の色は赤く健康そのものの色艶になってきた。意識は無いものの弁天様のような微笑みさえみられるようになった。そしてそのまま1年が過ぎたが、平成3年6月7日の朝5時、夜が白々と明ける時刻に静かに昇天していった。行年77歳であった。
 通夜は翌6月8日夜7時から相模原市の一行寺でしめやかにおこなわれ、翌6月9日12時から同じ一行寺で告別式が執り行われた。法名は釋尼文祥。
 遺骨は山下家の先祖代々の墓所である、長野県上水内郡信濃町柏原の小丸山公園の中にある。ここは小林一茶記念館の近く、俳諧寺の前で、妙高、黒姫、戸隠、飯綱の信州の山々が広々と見晴らせる景色の美しい所である。



新也の夜話(1)
私のクルマ運転史

          大橋新也

 私は、昭和34年から自動車の運転を始めました。
或るとき、常磐線の綾瀬駅と荒川放水路の鉄橋との間の踏み切りを渡ろうとした時、線路の上で、エンストしてしまいました。
丁度下山総裁が菰包みにされて、線路に置かれたまま、轢死させられた、あの踏切の一つ東寄の処でした。
私が最初にハンドルを握ったのは、トヨタのコロナの初代のモデルのマイナーチェンジ車でした。
この頃の日本車は、ボディーの丈夫なのは、トヨタ。エンジンの丈夫なのは、ダットサンと決まっていました。故障の多いのは、トヨタ。少々おかしくても、何とか動いたのがダットサンでした。
そんなわけで、私は、いつも、トランクに、修理用の道具とパーツ、それにファンベルトから金槌や金梃子まで積んで、一寸した修理工場みたいにして走っていました。
 当時の日本の車は、全てクラッチがついていました。そこで、咄嗟に、クラッチを踏んで、ギヤーをローに入れて、スターターを廻し、半クラッチにしながら、足に伝わる感触で、頃合を掴み、クラッチを少しづつ上げながら、ギヤーを噛ませて、ゆっくりと、セルモーターの力だけで、踏切を脱出、その直後、遮断機が下りて、列車がゴーッと、過ぎて行きました。当に命拾いをしました。その時、神様の有り難味をひしひしと感じました。
踏み切りから脱出して、適当な処の路肩に車を停めて、キャブレターを外し、勿論その場で、分解し、結局ニードルバルブが引っかかって、燃料が溢れ出していたのでした。もう少しで、エギゾーストパイプの熱で引火する処でした。  勿論、キャブレターは、インテイクパイプの真上についているので、そんなに心配は要らないのですが、でも、ガソリンは、非常に希薄になった状態で火を呼び込みます。
キャブレターのストレーナにも、ガソリンタンクからのゴミが引っかかっていました。
 そんな時代、仕事から帰って、一応、ディーラーにピットインして、再度、点検と整備をしてもらうのですが、当時の修理屋というのは、メカに弱いお客と見ると、修理の際に、どこか必ず、じきに壊れる様な処をこしらえてから
お客に、「ハイ、修理完了しました。」と言って、車を引き渡すのです。
 ですから、私なんかは、車を引き取ってから、自分で、要所要所を点検します。すると、必ずと言ってよい位、ネジが緩んでいるのを発見します。ですから、一通り、増し締めをしてからでないと、おっかなくて、運転できないのです。
お陰様で、と言っては変ですが、そんな不届き千版な修理工のお陰で、車の構造に明るくなり、或る程度は、自分で修理できる様になりました。 でも、現在の車は、コンピューター制御が多すぎて、とても、自分ではできませんがね。
 一日の仕事が終わって、車を車庫に入れる時、「今日一日、よく働いてくれて有難う」と車体を撫でながら、家の中に入ります。その昔、馬が唯一の早い乗り物であった時代によく聴く話で「青よ!今日一日ご苦労さん」とまあ、これと同じですね。
その後、私の例のコロナですが、蔵前の交差点を浅草橋から浅草方向に走り抜けようとした時、たまたま注意信号に変わったので、ブレーキを踏んだ処、スコーンと、足の足応えが空っぽになったのです。
 あっ!ブレーキのホースが切れた!!!。そこで、ギャーをいきなりローに落として見ようと思っても、当時の車はシンクロメッシュがありませんので、ダブルクラッチを踏まないと入りません。しかし、そんな悠長なタイムがありません。
とっさに左側に都バスが平行して走っていたので、思い切って、自分の車の左側を、そのバスのドテッパラに擦りつけて、その摩擦でようやく減速し、やっとの思いで、信号を越えた処で停止できました。急いで、謝りに、バスの処に走りより、運転手に理由を述べて、兎に角、車庫まで同乗させてもらい、上司に頭を下げて許してもらいました。
 今ならば、欠陥車として、車のメーカーに、怒鳴り込むのですが、当時は、そんな事は通用しませんでした。
それから、やおら、蔵前警察に事情を話し、路上脇まで、車を自分でハンドルをきりながら、肩で車を押して、危なくない処で、ジャッキを使って、右後輪を浮かし、よくよく覗いたら、シャシーに這わせたブレーキパイプに亀裂が入って、ブレーキオイルは、空っぽになっていました。(現在の車は、二系統ブレーキですので、一箇所亀裂が入っても車は止まります。)
そこで、持っていた道具箱から金槌を取り出し、切れたパイプを叩き潰し、ペンチで、蚊取り線香の様に丸めて、再度上から叩き潰し、ブレーキのオイルシリンダーにブレーキオイルを充填し、自分でアエ抜きを何度も繰り返し、それから、いつでも止まれる様に、ギヤーをローに入れたままで、堀切まで帰り着きました。
 そんなわけで、その時から、国産車がイヤになり、たまたま、GMの日本代表の鈴木氏と入魂であったので、当時のGM車の正規ディーラーの社用車を譲りうけ、以来、通算して60万キロ、Opelを三回乗り換えてきました。
その後、日本の車も良くなったので、日本車にしました。外車の修理工には、薄汚い真似をする様な者はいませんでした。むしろ、もうじき故障すると言う場所を発見して、教えてくれたのです。
でも、修理工は、日本車の場合も外車の場合も、日本人でしたよ。
 現代の多くのドライバーは、恐らく、自分で或る程度までは、修理とはゆかなくでも、日々の点検整備もやる、と言う人は、いないのではないでしょうか。要するに、メカ音痴でも運転している。これは、とっても恐ろしいことなのだと思いますが、皆様は如何お思いですか。 パソコンも、何台も壊して、自分で、苦しんで、どうにかこうにか復旧させる努力は、しないより、した方が、自分自身の勉強になるのだと思います。
 とんだ、昔話になってしまいました。現代のドライバーは、とっても幸せです。それは、現代の車は、なかなか故障しないのですから。 昔は、晴れ着を着て運転している時、エンストすると、路上で作業衣に着替えて、手を真っ黒にして自分で修理したものです。無事に終わっても、汚れた手を洗う処までは、まだまだ、そのまま走らなければならないのです。
いやーっ、今夜は、タイムスリップしてしまいました。
では、これにて、おやすみなさいませ。


新也の夜話(2)
ウイルスについて
      

            大橋新也

こんばんは、今夜は、PC Virusの内、もっともポピュラーで、ひとたび襲われたら、アドレスを全部詐取され、ハードディスクを壊されてしまう、
W32KlezE@mm と W32KlezH@mm と W32Klez
gem@mmについて、私の知っている限りをお伝えしたいと思います。
既に、ご存知の方は、にやにやお笑い下さりながら、一応ご覧下さい。
この種のウイルスは、多くは、txt.exe.gif.jpegなどの 日
常誰でも用いるfileにくっ付いて入ってきます。
更に、困ったことに、 Windowsのソフトには、いとも簡単に潜り込め
るのです。狙われる機種は、 Windows95,98,NT, 2000, xp そして Meと言うことですからウインドウズの全機種です。
 処が、 かかるウイルスが attack できない機種は、何と、 Mac.
Unix. そして Linuxです。従って、 ハッカー達は、何かの関係で、 元々Windowsを、 と 言うよりもMicrosoft社が気に入らないのではないかと、想像してしまうのです。
 しかし、ここまで解っている Microsoft社なれば、 95が発売
されてから、既に8年を越えています。
そんな長い間に、かかるvirus完全対策済みのOSが出来ても不思議では
ないと思うのですが、未だにMacAFee程度の用意しかされていません。
 そう思うと、お互いにナアナアと言っても過言ではないのか!?!と思いま
す。どんどん壊してもらわないと、新品が売れないから・・・・と邪推??しても可笑しくないと思います。
兎に角、IT産業に携わる企業家の真底の意とする処は、全く不可解です。
みなさんは、如何お思いですか?
では、今夜はこれにて、失礼します。


新也の夜話(3) アルミについて

             大橋新也
 

 こんばんは、今夜は、誠に僭越ですが、手前味噌的なお話をさせて頂きたく筆をとりました。何卒ご高覧の程、お願い申し上げます。かれこれ、五十年、いやそれ以上前から、キッチンには、「熱しやすくさめやすい」と言う長所と短所を備えてはいても軽くて、便利なアルミの調理器が一世を風靡しました。
長い間、アルミのご厄介になった為に、世界中の人々の脳の中にアルミ酸化物が入り込み、それが積み重ね的原因で、アルツハイマー病が激増してしまいました。彼のレーガン元大統領もアルツハイマーでお悩みだそうです。
例え、表面にアルマイト加工が施されていても、所詮鍍金ですので、アルツハイマー病を避けることは不可能です。そこへ持ってきて、アルミよりも、原価が安く、錆びなくて綺麗で・・・と言うことで、ステンレスの鍋や釜が台所に進出してきました。(アルミ缶入りの各種飲料も考え物です。)
しかし、これによって、鉄鍋が姿を引っ込めてしまったのが原因で、口に入れるものに、急激にミネラル不足を来たしてしまいました。
 難しい理屈はさておき、血球の中のヘモグロビンの主体は鉄(Fe)です。その鉄は、身体全体に、酸素を運び、心臓に戻る時には、酸素の燃えかすを抱えて再び酸素を運び出す役割をもっています。
でも、その鉄、勿論オーガニックのFeですが、その成分は、食生活の中から摂取するわけです。多くは、昔は、南部の鉄瓶でお湯を沸かし、それで、お茶を飲み、鉄分とビタミンCを容易に摂取し続けました。ですから、一寸した切り傷でも、つばをつけた位で止まってしまいます。
 鉄の鍋で、囲炉裏を囲んで、味噌汁や色々な鍋料理を毎日楽しんで居りましたので、毎日必要なミネラル、例えば、マグネシウムやカリウムや鉄やカルシウムなどは、敢えて意識せずとも、十分摂取していました。ですから、子供達が山を二つも越えて小学校に徒歩で通っても、くたびれません。現代の小学生の様に、たった十五分の朝礼でも、倒れる様な弱者はいませんでした。
人間の体液は、丁度自動車のバッテリーの液と同じ様に、バランスのとれたミネラルが含まれていないと、イオン化現象がスムーズに行かなくなります。それが、殆どの内臓疾患の原因となるわけです。
医食同源といわれるが如く、食物は、本来は薬なのだと考えます。 良薬口に苦し、と言う言葉は、多分昔の医師が、患者に、何とかして苦い薬を我慢して飲ませるために発案した言葉だと思います。
本来、薬と言うものは、「草冠に楽しむ」と言うが如く、摂取する時には、心に楽しさを覚えなければ、本当の良薬とは言えないのだと思います。ですから、毎日口にする食物によって、結果的には「薬」となる様に、厨房に立つ人は、心せねばならないのだと思います。
 中国天台山の僧侶の毎日の修行の中で、一番の大役は、「典座」(てんぞ)と言って、当番制の修行ですが、これは、山内の修行僧全員の食事を造る役目なのです。従って典座は、寺の座主よりもその時だけは上位と言うことになります。修行僧全員の体調を考え、健康によい材料を用意して、心を込めて煮炊きする修行です。
ですから、本当の意味の薬は、と言うと、毎日の食事そのものが楽しく戴ける薬なのだと思います。
さて、ステンレスの調理器のお陰で、現代の私達の社会では、老人性痴呆症は元より、若い女性の多くは、生理不順で密かに悩んでいる方が多く、また、男性には、精子の健康状態が思わしくない者が増えてきて居ります。
男女ともに、二十歳を過ぎる頃から、肩こりや、貧血症で悩んでいらっしゃる方が多く、四十を過ぎた頃から、男女共に腰痛で悩んで居られるのをよくお見受けします。
血の循環がスムーズに行かなくなると、当然心臓は、頑張りますので、結果的には、心臓肥大症になったり、弁膜症になったりします。
 五十を過ぎれば、まだまだ若いのに、神経痛であちこちが痛む方が多く。そう言うみなさんは、すぐに、最寄のお医者さんの門を潜るのでしょうが、大抵は、食生活や厨房機器の改善を指摘されずに、単に、痛み止めの処置を受けるのが関の山。(これを対症療法という)。場合によっては、痛みを感じる神経を遮断してしまう手術をしたり、また、痛みを感じる物質に対抗するドーパミンなどの薬を受け取って帰宅するのが、大抵のコースだと思います。兎に角、現在第一線で働く人々の両親そのものが、アルミやステンレスで料理されたものを食べつづけてきた上、当のご本人達も、同じ調理器を用いている以上は、完全にミネラル欠乏症にかかってしまっています。
 精神異常者や変質者などが増えているのも、ミネラル不足が原因で、すぐにトサカに来てしまうのです。
大宇宙のいかなる天体、即ち、星は、その中心がFeなのです。鉄は、一瞬たりとも、本当の姿を露出しません。そのわけは、鉄の表面は、必ず、周囲の何かの元素と結びついて、化合物が取り囲んでしまいます。それ故に、地球上の人類も、動物も、植物も、みんなみんな有機鉄を摂取して生命を維持しています。
 私は、今から凡そ三十年前、アメリカから、食品としての、「栄養素」を輸入して販売した経験があります。一方、朝鮮にんじんも取り扱ったことがあります。今は、前者も後者も取り扱っては居りませんが、当時、色々と栄養素について独学で学んだ知識を今、呼び起こして、皆様にご披露申し上げた次第です。但し、現在は、自分と家族用として、天然ビタミンE、セレン、カルシウム、マグネシウム、亜鉛、鉄だけは、欠かさず毎日、錠剤またはカプセルで摂取して居ります。
お陰様で、どうやら、日々明るく、楽しく過ごさせて頂いております。
 ご参考までに、アルツハイマー病とアルミとの因果関係を記したHPのweb addressが下記の通りですので、一応お読みいただければ、尚々ご理解が広がることと存じます。
http://www.inetmie.or.jp/~kasamie/alumi.html

では、今夜はこれにて、おやすみなさいませ。


河口湖「合唱の家・おおば」で合宿

                山下広之

 
私の所属する男声合唱団アンサンブル・レオーネは、7月13日(日)午後2時から、木曾文化公園文化ホールで開かれる合唱団「風雅」の第2回コンサートに出演することになった。この練習のため、合唱団「風雅」と合同曲、混声合唱組曲「旅」を合わせるための合宿練習を河口湖で行うことになった。長野県木曾福島の合唱団「風雅」と距離的には中間点にある河口湖で合宿練習することになったのである。
 当日5月31日(土)は折からの4号台風が押し寄せて朝から雨模様だった。5月に台風がやってくるのは気象庁観測では32年ぶりのことだそうだ。余程行いが悪かったに違いない。
 湖北駅6時38分上野行き快速電車に乗り何人かのメンバーと日暮里経由新宿駅に到着、8時11分発河口湖行き直通快速電車で一路河口湖へ。約1時間で相模湖を通過し10時27分に河口湖駅に到着。レトロバスで約15分で河口湖美術館に到着した。レトロバスは30分、0分と30分毎に出ている。料金は430円だがJRの河口湖フリーキップでは無料で乗れる。
 河口湖美術館はヤンマーディーゼルの山岡会長が集めた近代日本の絵画を中心として展示している。青木繁、高橋由一、岡田三郎助など多くの作品を鑑賞した。ここから歩いて10分のところに本日の合宿所「合唱の家・おおば」があった。
 ここは合唱指揮者・故大庭三郎氏が22年前に作った合唱専門の合宿所で、25人以上90人までの宿泊なら貸切にしていただける。現在は2代目夫妻が切り盛りしている。音響効果の良いきれいなホールを持ち、合唱には良い環境で、1泊3食6500円である。壁に貼った記念の色紙には指揮者の渡辺三郎氏ほか多くの識者が「師と仰ぐ大庭先生」と書き記しているのを見ると、大変偉い指揮者だったと思われる。コールアマフォークで一緒に歌っているバスの楠田氏もYMCA合唱団のメンバーとしてサインしてあった。
 12時に到着すると長野の木曾福島から役30人のメンバーが既に到着していた。早速昼食。鮭のそぼろ丼にワカサギのフライ、おひたし、ワカメの味噌汁など、一般に昼食はカレーライスなどが多い合宿所としては、異色の美味しい昼食だ。
 午後1時から夕方5時15分まで2回の休憩をはさんで、混声合唱組曲「旅」の練習。それにアンコール用の「信濃の秋」から第1曲の「旅のおもい」、それに「大地讃唱」の練習を行った。
 練習後は宿から車で2〜3分の湖畔にある銭湯兼レストランの「富士霊峰の湯・あかり」に行き、暮れ行く湖面を眺めながらゆっくりと露天風呂に浸かって練習の疲れを癒した。きれいな風呂屋である。入浴料620円。
 宿に帰って7時半から「おおば」ブランドの赤・白ワインを飲みながら夕食。刺身など魚を中心とした和食料理を楽しんだ。8時半から夕食を片付けてビール、酒、つまみなどを並べなおして宴会。大いに飲んだ。レオーネからは「希望の島」「いざ立て戦人よ」「遙かな友に」ほかの男声合唱を出して大いに盛り上がり、10時に宴会をお開きにした。その後は部屋の中に飲物を持ち込んで夜半過ぎまで大いに懇談した。
 翌朝は窓を打つ朝の湖の風に6時に起床、7時半から朝食。9時から昨日の練習した曲をもう一度練習し直して12時に終了。日本蕎麦、蕗のご飯等の昼食を食べてレオーネの練習は終わり、宿を後にした。帰路は河口湖美術館前から12時57分発のレトロバスに乗ってカチカチ山ロープウェイまで行き、標高1070メートルのカチカチ山展望台まで上って河口湖全景を楽しんだ。またふもとの船着場から遊覧船に乗り、標高830メートル、周囲20キロメートルの広さを持つ河口湖を一周して遊覧した。
 15時38分河口湖発快速新宿行きに乗り、ビールや山梨のワインを楽しみながら新宿・日暮里を経由し、午後7時半に湖北の自宅に帰着した。
 レオーネの出演は第2ステージで山田耕筰の男声合唱曲「からたちの花」「青蛙」「この道」「赤とんぼ」の4曲と小山章三氏の「あなたを知らない」の5曲を歌うことになった。また最終ステージでは混声で7曲からなる合唱組曲「旅」を、アンコールで「信濃の秋」から第1曲の「旅のおもい」、それに「大地讃唱」の2曲を歌うことになった。
 河口湖での合宿を終えて帰京した翌日、河口湖練習の余波でノドの筋肉がだんだん痛くなった。声帯は痛みが無く首の筋肉の方が痛くて夕食も飲み込みにくくなった。合宿ではバスが4人だけだったので、大地讃唱や、「旅」のカケ声
などでバランスを良くしようとガンバリ過ぎたのが原因と思えた。8月2日の月曜の夕方は東京・目白で東京バッハ合唱団の練習があったが、首の痛みで殆ど歌うことが出来なかった。
 私も年をとってノドの筋肉が削げ落ちて弱くなったのかな、または咽喉ガンにでも罹ったかなと心配した。まあ、筋肉痛であろうから、2〜3日で痛みは取れるとみずからなぐさめた。年齢を考えないで全力で歌うのは出来ない年代になったと思った。
 8月は東京バッハ合唱団で世田谷と長野の信州での2回の演奏会、そして「手賀沼の白鳥」のミュージカルが8月23・24日の土・日の2回公演が予定されているので練習は続けなければならない。
 三日後の6月4日(水)に南柏・今谷上町の耳鼻咽喉科の名医、寺尾彬先生を訪ねた。いきなり鼻から管を入れられたので(全然痛くなかった)何をされるのかなと思ったら、「咽喉と声帯をみると、あなたのは大変綺麗で全く問題ない。別な要因だ」と言われ、今度は首を診て「これはアキュー性甲状腺炎である」と、寺尾先生は言われた。「アキュー性とはどういう意味ですか」と伺うと、「亜急性」ということで、要は甲状腺の病気だった。そして先生は「私が治すより、前信州大学教授で北柏の柏市立病院に山田隆司先生という、日本を代表する、世界でも通用する先生がおられるので、紹介状を書いてあげよう」と言って封書を認め、電話で毎週木・金に診療されていることを確認してくださった。まことにありがたく、翌日朝、北柏駅西口からバスに乗って6〜7分、構内の停留所までバスが入る、大変便利な病院へ出かけた。着いて看板を見ると名誉院長が山田隆司先生だった。
 山田先生は77歳、いかにも学究者という感じだ。診ていただくと、なにやらカルテ一杯に文字を書かれるので心配になってきたが、診断は「亜急性甲状腺炎」であった。先生は「この病気は正体不明のウィルスに感染して起きる病気であるが、男性が発病するのは稀である。女性に多い。あなたは血糖値が140と高いので軽い糖尿病である。従って治療は1週間入院して行うが、幸い天が味方して症状が軽いので、在宅で治療できる」といわれた。この結果入院せずに済んだ。そして当日午後2時からの大学での会議にも出席することができた。
 現在は痛みも引いてきて本日は大学の帰りに葛飾の青戸でフォーレのレクイエムとバッハのマニフィカートの練習にも出席し、どうやら声を出して歌うことができた。また手賀沼の白鳥のミュ−ジカルの練習も問題なく、もう大丈夫という段階になった。7月13日(日)の風雅のセカンドコンサートは全力で歌える状態となった。しかし軽い糖尿病といわれたため、お酒はしばらく慎まなければならなくなった。

執筆者の紹介

大橋新風
大橋新也 
寶莱徳洋行有限公司・香港風帆廠日本代表。文京学院大学生涯学習センター講師。東京都葛飾区在     住。多彩な趣味で幅広く活躍。大橋新風の名前で川柳も発表。

山下広之 
男声合唱団アンサンブル・レオーネ団員。我孫子市湖北台在住。文京学院大学生涯学習センター     キャリアカウンセラー。 〇四(七一八八)一六七三   






    創造の白樺

  平成15年6月(初夏号) 通巻第8号

  編集・発行  山下広之

  〒270-1132 我孫子市湖北台2−7−25  tel/fax  04(7188)1673

   E-mail yamashitah@dream.com




    創造の白樺

  平成14年10月(秋号)  編集・発行  山下広之

  〒270-1132 我孫子市湖北台2−7−25  tel/fax  04(7188)1673

   E-mail yamashitah@dream.com



 

 

 



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