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アンサンブル・レオーネ/「創造の白樺」

 


 アンサンブル・レオーネの同人誌「創造の白樺」は、平成14年4月に創刊号を刊行しました。

 最近のバックナンバーについては、以下をクリックしてご覧ください。

 創刊号以降で下記にないものについては「アンサンブル・レオーネ資料館」にあります。

   「創造の白樺」第12号(平成16年1月、新年号) 

   「創造の白樺」第11号(平成15年11月、晩秋号) 

   「創造の白樺」第10号(平成15年11月、秋号)

   「創造の白樺」第9号(平成15年8月、夏号)

   「創造の白樺」第8号(平成15年6月、初夏号)

  

創造の白樺

     平成十六年二月(新春号)
       通巻第13号

             目  次

川柳  晴れたり、笑ったり、時々怒り       晴 一郎    2            

産業社会の終焉                    和田久實   3

失われ行く日本の伝統文化と常識          大橋新也   10

六本木ヒルズの新しいスタイルの図書館      仲津真治   24

阪神・淡路大震災から九年 
  「自ら被災し、対策に奔走した日々」を聞く    
    ・・・・防災の集い:第4回・・・・         仲津 真治   27

思いは叶う                         加藤良一   29


北海道開拓の記録(2)
  2002年春 岩国・平郡島を訪ねて         川戸龍夫   33
                        
青春18キップの旅
小諸の「シェイクスピア美術館」を訪ねて       山下広之   36
 
 執筆者の紹介     38                        
川柳
晴れたり、笑ったり、時々怒り
晴 一郎

◇ カンカンガクレキ◇
    「愛人と 学歴競う スキャンダル」(有権者の恥はどっち?)
    「ワシなんか 雀荘だけで 卒業よ」(いかめしい門の手前に研究室?)
    「カンちゃんの 歯切れはどこへ 行ったやら」(国会で舌鋒鋭く小泉主相を追
及したカンちゃんも、この問題では元気が無いですね)
    「タクちゃんは ニンマリ、ニタリ、ニタリかな」(博多湾の春の海)

◇ サル年の年賀状◇
    「不況サル、戦争サルという年に」(なればよいのですが)
    「サル者は 追わず貧乏 行ってくれ」
    「パソコンの 宛名増えたな ワシャ手書き」
    「欠礼を すると挨拶、礼尽くす」

◇ 捨てる神、拾う神◇
「カミ頼み、ペーパー・テスト、カミ頼み」
「記憶力 良過ぎる人と いる不幸」
「八百長が なくて曙 KOに」(紅白歌合戦もKO)
「方法と手法、やり方、どう違う」
「出会い系 メールのラッシュ、ワシャ、グニャリ」
「携帯は 運転室で 使いましょう」
「視聴率 ヤラセは得意 テレビ局」
「名刺ない 世界に入る 定年後」
「定年後 我が家にうるさい 上司おり」
「家庭内の ワシの序列は 最低か」
「長電話 相手のせいに している人」
「ステージも 観客席も 高齢者」

◇ ミヤコンジュ狂句◇
    「ギヲイウナチ イエタジダイガ、ナツカシカ」(翻訳:ツベコベいうなといえた
時代が懐かしい)




産業社会の終焉
和田久實

(1)
いったい何が歴史を動かしているのでしょうか? などと、いきなり大上段な議論をするようで恐縮ですが、「歴史の原動力とは何か」という問題については、いろいろな歴史観があるようですね。
たとえば、いまや廃れた「唯物史観」では「生産力という下部構造と生産様式という上部構造の矛盾が歴史を動かす原動力だ」と主張します。しかし、「それならどうして奴隷労働という下部構造の上にあれだけの古代ギリシア文化が花開いたのか」という問いにはマルクスは「私には答えられない」と言っておりまして、これひとつみても無理のある歴史観ではありましたね。
また、司馬遼太郎さんの歴史観を「英雄史観」だと批判する歴史学者もいるようですが、なに、指導者の性格や人格は実際、とんでもなく歴史の方向性に影響を与えるのは事実ですよね。戦争ひとつとっても、もし別の指導者だったら別の展開になっていただろうと思われる例は枚挙にいとまのないところです。
たとえば明治維新の「江戸無血開城」も西郷隆盛と勝海舟という人物だからこそできた離れ業でしょうし、また、もしあの微妙な選挙でゴアさんが勝っていたら、ブッシュ大統領とはずいぶん違った対イラク政策になっていたことでしょう。
さて、この稿のテーマは、「技術史観」の立場から今の世の中を考えてみたいということであります。技術史観と申しますのは、「技術こそが歴史を発展させる原動力だったし、これからも技術の向上が歴史を変えてゆくのだ」という発想であります。
まず、この歴史観が妥当かどうか検討してみましょう。「卵が先か、鶏が先か」すなわち「技術の向上があったから社会はあのように変化したのか」それとも「社会があのように変化あるいは発展したからあのような技術革新が起きたのか」という点については、もう議論の余地はないでしょう。当然「技術が先」であります。
たとえば「大学センター試験」みたいな、五十万人以上もの人たちが一斉に受験し、数週間のうちに結果が正確に出るなんていうトンデモナイ試験はコンピュータなしには実施することは不可能です。「むしろコンピュータ技術の発達があのようなテストを生み出した」というべきで、そういう理由から、私自身はこの技術史観に立っております。

(2)
さて、そんなわけで技術史観の立場から人類の歴史を振り返ってみますと、これまで二つの大きな「技術革命」が起きたと言えます。すなわち、「農業革命」と「産業革命」であります。もちろん、フランス革命・ロシア革命というような「社会革命」とは関係ありません。
人類が農業を始めたことを「革命」と呼ぶのは大げさだと思われるかもしれませんが、いわゆる狩猟採集の時代というのは、人間が獣と変わらぬ生活をしていたことを意味するわけですから、農業によって初めて余剰生産物も蓄積され、階級や男尊女卑も発生したにしても、ともかく「人間らしい」生活が始まったわけですから、これを革命的な出来事と呼ぶのにさしつかえはないでしょう。
そして、産業革命を革命的な出来事だと認めない人はあまりいないでしょう。言うまでもなく産業革命は「機械」の使用によって、人間を肉体労働から相当程度解放しました、なにしろその結果、今日の先進国の経済的繁栄があるのですから。
しかし、この技術革命は同時に資本主義という生産様式を生み出したわけですから、負の側面もあるわけです。なぜかといいますと、資本主義の目標、というよりむしろ存在理由は利潤の追求ですから、当然その発展のために製品の販売先である市場と、原料の安価な供給先とを求めることになります。しかし、こんな好都合な「市場兼原料供給先」とは、いうまでもなく植民地の別名に他なりません。
もちろん植民地はあらかじめ存在していたわけではなくて、先進国は自国の植民地を軍事力を背景に作り出してきたわけでして、つまり帝国主義であります。大英帝国、大日本帝国という名前はシャレではありません。そうして植民地争奪戦を世界規模で展開してき
た結果が、「二十世紀は戦争の世紀」と言われるようになったというわけですよね。第三世界の人々が、今日なお「絶対的貧困」(暮らしに困るどころの話でなく栄養失調で死を待っているという意味です)に苦しんでいる最大の原因のひとつは、彼らの国が植民地化され、宗主国に徹底的に収奪された負の遺産であるわけですから、「世界を百人の村にたとえると」という例の比喩でいいますと、「産業革命の恩恵を享受したのは二十名の人たちで、その全員が先進国に住んでいます」ということになるわけであります。
ま、このようなマイナス面はいろいろあるとしましても、ともかく私たち日本の社会は、他の先進国同様、産業革命のおかげで経済的発展を遂げ、ここのところ不況が長引いているとはいえ、第三世界の国々の、何百倍以上ものGNPを毎年生産しているわけであります。やはり産業革命は人類史上、特筆すべき技術革命だということになりましょう。

(3)
さて、技術史観にもとづいて話を進めるためには、ここで技術の持つ「ある特徴」を述べておかねばなりません。それは「不可逆性」であります。すなわち「いったんある技術が開発され発達したら、その技術のなかった昔には戻れない」ということであります。つまり私たちは、もう泣いても笑っても、車や電車や飛行機やテレビやビデオやエアコンや掃除機や冷蔵庫や洗濯機や乾燥機や電子レンジやコンピュータや携帯電話や、そして核兵器のない世界へは戻れないのです。
なぜか? それは、そうした技術が新しい効用を生み出すからであります。たとえば、いま中国は携帯電話の世界最大の市場になっています。たしかに、あの広大な国土に無数の電柱を立てずに済むという、ものすごい経済的な利点はあります。しかし、だから携帯電話が爆発的に普及しているというより、むしろ携帯電話でなければ果たせない新しいコ
ミュニケーションを中国の人々が争って享受しようとしているからなのだと私は思います。たとえば、携帯電話のおかげで、どれだけ待ち合わせが楽になったことでしょうか。
こうした「昔に戻れない症候群」(笑)が技術の発展、あるいは技術革命の特徴だといたしますと、技術史観によれば「産業革命は農業社会を終焉させました」ということになるわけであります。もちろん「産業革命が起きたから農業がなくなった」などと主張したいわけではありま
せん。そうではなくて、人間が自然に直接働きかけて生活の資を得る営みである農業自体はもちろん未来永劫に存在するはずなのですが、その「ありかた」が産業社会にふさわしい農業に変わらざるをえなくなった、具体的には、自給自足的な農業から、換金作物の生産を目的とする農業になっていったという事実を指摘しているわけであります。
さて、「農業革命」「産業革命」に続く三番目の技術革命は? なんてクイズみたいなことを言えば、「なに当たり前のことを言ってるんだ、IT革命とか、情報革命とかのことだろう」と言われるでしょう。もちろん、そのとおりであります。でも、実は「情報革命」という言葉自体が「技術史観」の専門用語なのですから、私には、むしろ「我が意を得たり」という気分なのですが。
そんなことはともかく、そういう次第ですから、ちょうど機械による産業革命が農業のかたちを産業社会に適応できるように形を変えていったように、コンピュータによる情報革命も、工業を情報社会に適応できるように形を変えてゆくだろうという結論になるわけであります。
つまり、はっきり言いますと、情報社会に適応できる形の農業や工業でないと淘汰されざるをえないだろうということであります。
こういう議論を進めますと、どうしても「では、これからはどんな社会になるのか?」という疑問が湧いてくるのでありますが、その疑問に答えようとするためには、まず「産業革命によって出来あがった先進国型の産業社会とはいったい何だったのか」を確認することが必要になるわけであります。

(4)
今日、私たちが「現代的な生活」とみなしている暮らしのプロトタイプ(原型)は千九百二十年代のアメリカに求められるでしょう。もちろん第一次大戦後のバブル景気という背景もありましたし、当時は農業の利益率が低下していたとか、多くの工場労働者がインフレに追いつけない低賃金にあえいでいたとかという「富の偏在の弊害」は確かにありましたけれども、全体としてみればアメリカ経済は技術革新により、未曾有の好景気であったことは確かであります。なにしろ当時のアメリカの国民所得は、英・仏・独・日、四か国の国民所得合計を、はるかに上回っていたのですから。
Roaring 20s と称されるこの時代は、何よりも大量生産・大量消費の時代の幕開けでした。
例のベルト・コンベア式によるフォードT型の生産が象徴的です。その結果、車の価格は四十分の一以下に下がり、「T型は追い越せない」(何台追い抜いても、また目の前をT型が走っているから)というジョークは、むしろヘンリー・フォードの理想が実現されたことの追認に過ぎません。「一家に一台」のモータリゼーションの時代が始まったのであります。
大量生産・大量消費を、援護射撃どころか、むしろ牽引したのはコマーシャリズムでした。千九百二十年にピッツバーグでラジオ放送が始まってわずか数か月後にはCMが流れ始めます。このCM登場の意義とはなんだったのでしょうか? 
企業家たちは、良い商品やサービスを長年提供しつづけることによって顧客の信用を勝ち得るという老舗型の経営よりも、消費者に、たとえそれが不要不急の商品であれ、いや、いっそ劣悪な商品であれ、買いたいなという意欲を起こさせるほうが、利益を上げるのには、何倍、いや何百倍も手っ取り早いのだという「悪魔のささやき」に耳を傾けたわけであります。
後はご承知のとおり、テレビの登場でこのコマーシャリズムは加速され、広告テクニックは進化し、広告が消費社会を席巻して行きます。
たとえば六十年代後半から七十年代にかけてBOという広告キャンペーンがアメリカで行われました。BOとは Body Odor すなわち体臭のイニシャルです。「BO、嫌われるぞ!」とか「あなた、BOじゃない?」というCMを浴びせられ続けたハイスクールの生徒たちは、争って何回も歯を磨き、リステリンでうがいをし、毎朝シャンプーで頭髪を洗ってから登校するようになりました。
このキャンペーンで誰が儲けたかは言うまでもないでしょう。日本で「朝シャン」が流行したのは、それから十年ほど後のことですが、誰がこの流行を仕掛けたかも言わずもがなでしょう。

次に二十年代のアメリカでは、時間の捉え方が根本的に変わりました。農業社会では、日照時間の関係で夏は長く働くし、冬の労働時間は短い。いわゆる自然のリズムに合わせた生活です。しかし、産業社会では人工的な時間が支配します。冬の朝七時、まだ暗くても、工場に出かけねばならない。逆に夏の夕方六時、そとはまだ明るいけれど、きょうの仕事は終わりだ。さて、これからの時間をどう使おうか? ということになります。余暇(レジャー)の登場であります。
ここで念のため述べますと、農業社会には「青年」という概念同様、「余暇」という概念は存在しませんでした。子供はある程度の年齢になると労働力として大人の社会に直接組み込まれ、大人の態度振る舞いを、なるべく早く身につけることを要求されます。学生さんだから、などといって甘やかすような余裕は社会になかったのであります。ちなみに第二次大戦前は、日本人の約九十三%が尋常小学校・高等小学校を終えると社会に出て働いていました。まして当時の「農業社会」では、「夜なべ仕事」はあっても、陽の高いうちに外に遊びに出かけるなどという行為は、道徳に反する行為にすぎなかったでしょう。
さて、余暇の到来で、たとえばプロ野球の人気が上がる。ベーブ・ルースが活躍したのもこの二十年代でしたよね。映画の製作も始まりました。禁酒法の時代とはいえ、キャバレーが繁盛します。ジャズの官能的なリズムに合わせて踊る男女。
レコードの発明で、生演奏でしか聴けなかった一流プレイヤーの演奏がカフェや酒場や家庭で楽しめるようになりました。音楽の日常化ですね(今日、若者が電車の中でウォークマンを聴いている姿の原型ですな)。
また、電気洗濯機や、冷蔵庫、掃除機が普及し始めたのもこの時代です。家事労働の時間短縮で、余暇は増える一方です。第一次大戦による男性労働力不足で、すでに女性の社会進出は始まっていましたが、電化製品がそれに拍車をかけます。
「高度経済成長」なんて言っても、結局、こういう二十年代のアメリカのような「豊かな」生活を目指して、第二次世界大戦後の日本も邁進してきたわけですよね。

しかし、同時に、人間が時間によって管理されるシステムが一般化して行きます。まさに「時は金なり」というわけで、「すみませんが少しお時間をいただけますか」という表現が示すように、われわれは「時間」を「財貨」とおなじように扱うようになりました。会社や工場では、遅刻することは、もちろん経営者の財貨を奪うことですから叱責の対象になりますし、将来の労働者予備軍である学生・生徒も、鉄は熱いうちに打て、とばかりに無遅刻・無欠席の生徒が表彰されたりします。
マックス・ウエーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の指摘どおり、勤勉に働くことが倫理的だと信じ、過労死をものともせずに、地球の反対側の国まで喜んで単身赴任するような「企業戦士」が資本主義の発展には必須なわけですから、このような人材を大量かつ効率良く生産するために、教育制度も、効率重視の知識詰め込み型になるわけです。
近頃、学級崩壊などと騒いでいますが、なに、産業社会型の学校システムが制度疲労を起こしていて、生徒の感性とミスマッチを起こしている結果に過ぎません。

(5)
以上見てきたことをまとめてみますと、産業社会は「大量生産・大量消費」「コマーシャリズム」「時間管理を中心とする効率第一主義」という三つのメルクマールによって支えられていたと考えられるわけです。
そして、この三つを実現するために、産業社会では、学校や会社などという「組織」を作り、そのより効率的な運営に知恵を絞ってきたわけです。二十世紀が「組織の時代」といわれた理由ですよね。
ということになりますと、来るべき情報社会では、その価値観が転倒するはずですから、「個人中心の社会」が到来するだろうという理屈になります。すなわち、「大量生産」から「多品種少量生産」へ、「一斉に従業員が時間で管理される生産様式」から、「個々人の裁量で働く時間が選択でき、その成果によってのみ評価される生産様式」へと変化して行くものと予測するわけですが、すでにこうした変化のきざしが現れているのはご承知のとおりであります。
巨大組織がそのスケール・メリットを失い、SOHO(個人が自宅でパソコンを使って仕事をする企業形態)が流行ったり、パートタイムの社員が急増したり、アウトソーシングが広がったり、あるいはコンピュータによる商取引で経済のグローバル化が進み、商社のような取引仲介業が廃れてゆくなど、「組織より個人」という時代の始まりを感じさせる現象はたくさん見られます。
コマーシャリズムにしても、広告で刺激された消費者が一斉に同じ様な商品に走るのでなく、インターネットなどでアクセスした情報を元に、個人的な嗜好(いわゆるこだわり)を追及する人たちが増えてきています。テレビにしても、見たいときに見たい番組を見る、う個人志向に変わって行くでしょう。ご承知のように、すでに、たとえば「ドラマ」というようなキーワードを入力しておけば、番組表から自動的に検索してドラマ番組だけを百時間分くらい録画しておいてくれるビデオは発売されています。
しかし、こんな変化はまだ序の口です。機械生産が始まったばかりのころには、ほとんど誰も想像すらしなかったような産業社会が実現したように、コンピュータの進化は途方もない可能性を秘めています。
いや人間はまだコンピュータの持つ潜在能力の一兆分の一ほども使いこなしていないのではないかとさえ思えるほどです。たとえば、ナノテクやら超伝導やらの未来技術はコンピュータの進化とともに、どんどん進むでしょうし、「産業社会のムダ」はどんどん省かれて効率の良い社会になってゆくことでしょう。
二十世紀は、科学の世紀とも言われましたが、車が走るようになったり、飛行機が飛んだり、実は「物理学の世紀」だったわけですが、「生化学の世紀」である二十一世紀では、脳の働きが解明されるにつれ、人間自身に対する認識も大きく変わることでしょう。ひょっとしたら、恋愛なんていう感情は脳のある部分の栄養素が過剰だから起きる現象にすぎないなんて解釈されるかもしれませんね(笑)。
また、故障した臓器を自分のクローン臓器に取り替えたり、あるいはヒト細胞の分裂回数を増やしたりすることで、平均寿命が三百歳を超えるような長寿社会が実現するかもしれません。
こうして数え上げればきりがありませんが、こうした未来予測は、私なんかが子どものころ「未来の社会」を夢見ていたようなバラ色の気分でできることではありませんよね。これから私たちの社会は限りなく便利になって行くでしょうが、「気味悪さ」すら感じるほどの急激な変化の到来を予感するのも、技術史観でいう「人類史的な革命」が起こりつつあるからなのでしょうね。
しかし、こうした未来社会がいくら気味悪くても、もう私たちはもとの産業社会には二度と戻れないのです。そしてきょうもコンピュータは進化し続けているのであります。



失われ行く日本の伝統文化と常識
大橋新也

はじめに

 昨今の世情を目にし、心して、客観的に、だが、時には主観的にならざるを得なくなり、腹を立ててみても、如何ともできず。なれど、黙って過ごせば妥協したことになる。 妥協は、どこまでいっても妥協で、調和とは違う、どこか心の底に反発や悔いを残してしまう。

 そこで、思い切って「失われゆく日本の伝統文化と常識」と題してタイムカプセルを造る様な気持ちで筆をとることにした。 
 こうして書きとめておけば、何時の日か、誰かが読んで、意を新たになさる切っ掛けになるのではあるまいか。そして、世界に誇る、古き良き日本の伝統文化を蘇らせて頂けるのではないかと、斯様に思う次第。

 ご精読を戴けますれば、幸甚に存じます。



目      次
第一章 生け花・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   1頁
第二章 裁縫 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   5頁
第三章 住まいの建築・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   7頁
第四章 東西南北天地・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   9頁
第五章 切り出しナイフ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  11頁
第六章 師事の心得・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  13頁
第七章 天候の予測・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  15頁


本      文
第一章、 生け花
 「挿花」。そもそもの始まりは、かなり古く、仏教に造詣が深い「聖徳太子」の創意によるとされています。
そして、小野妹子の実際に組み立てたものが、「立華」でありました。
小野妹子は、出家して名を「専務」と改めました。この「立華」は、「専務」から伝えられて四十三世、京都六角堂堂主「池坊専務」は、其の末裔であります。
従って、「立華」は今日に至っても池坊を宗家としています。
 さて、その組み立て方には、一つの作法があり、「眞・副・請・控・見越・小眞・胴・流・前置」の九種からなり、色彩の調和、枝葉の配置に重きを置き、「挿花」の中では、最も精巧且つ荘厳なものであります。
 聖徳太子が六角堂頂法寺建立の後、「小野妹子」に命じて寺を守護せしめました。前述の如く、入道して「専務」と号し、堂側(庫裏)池坊に住まいして朝夕華を本尊及び太子の尊前に供え、また、献花の華法を衆人に教えました。
以来、子孫は相次いでその華法を伝えましたが、十二世「専務」に至り、草木の出生・強弱の理を究め、「上・中・下」の別、花形の法則を定め、小巻十九条の伝書を著し、第二十七世・専鎭の時、足利将軍から「花道家元の称」を受けました。以来、連綿として今日に及んでいます。
 池坊では、生け花の基本形を「眞の花形」といい、心(しん)留(とめ)副(そえ)の三枝として、心を「空」に、「留」を地に、{副}を天に配します。
 そして、「眞の花形」に更に枝葉を加えたものを「行(ぎょう)の花形」とし、眞・行ともに置花瓶に挿すのを「草の花形」とするのです。
け花の流儀は、池坊を始めとし、足利時代以降、順次色々な流派が誕生しました。その主な流派は、
 青山流、松月堂古流、慈渓流、未生流、遠州流、石州流、千家古流、東山慈照院流、相阿弥流、竹心流など。また近年は、草月流も誕生しました。
各流派とも、とりわけ、投入花・盛花(もりばな)などは近世風であり、宴会のメインテーブルなどに飾る花法は、直盛り(じかもり)と呼ばれるものが絢爛豪華な装飾生け花として高く評価されています。
19世紀末(明治時代)小原流初代小原雲心は従来の生け花(池坊や古流)に加え「盛花」(口の広い器に材料を盛るように生けた花)という「新形式の生け花」を創始して、「現代生け花」の礎を築きました。以来1世紀、時代の生活様式にマッチした盛花を基本に、「現代生活空間を飾る生け花」を展開しています
東京青山にある老舗花屋「花茂本店」は「小原流家元」直々の御用達であります。また、三田「花茂」は、古くから草月流家元及び池坊の御用達花屋です。
 また、遠州流花法では、床の間に飾る一杯の挿し花でも、細かい細工を施し、時には一週間も費やして、丁寧に生けることもあります。
 大正、昭和初期までは、会社が、女子社員の教養の一つとして、社内に福祉室を設え、就業時間を過ぎた頃、そこへ、生け花の師匠を招き、諸費用会社負担で「生け花」を伝統文化の継承の意味を兼ねて教えたものでした。
 従って、日本女性は、誰でもが花を生けると言う心得を理解しておりました。しかし、昨今は、建築様式が欧米化し、床の間がなく、折角花を生けても飾る場所がなくなりました。
 食卓に飾る花では、一輪挿しが多く、雅やかな「立花」を飾ることが忘れられてしまいました。
 生け花と切っても切れない縁となった「茶の湯」と言う作法があります。簡単に言ってしまえば、「客を招いて茶をすすめる会」ですが、詳しくは、「炭手前」、「濃茶(こいちゃ)手前」、「薄茶手前」があります。
 まずは、お客が着座すると、亭主「炭手前」を行います。そして、「香合(こうごう)」を客に示します。次に「懐石料理」を供します。客に「中立(なかだち)」を乞います。それから、「床(とこ)」の掛け物を花に改め、濃茶手前を行います。「茶入」・「同袋」・「茶杓」を客に示します。
次に、「薄茶手前」を行います。前述の「炭手前」、「濃茶手前」は亭主これを行いますが、この「薄茶手前」は、代點(だいだて)がなすことがあります。
また、「平手前(ひらてまえ)」、「長板」、「「丸卓(まるたく)」、「臺子(だいす)」等の手前
があり、昼・夜・暁・朝・飯後(はんご)・不時・跡見・獨客(どくかく)等の茶事があります。
 村田珠光を「茶湯の祖」とします。足利義政の時に、その体系が定まり、武野紹鴎から千利休に至って大成しました。
 とりわけ、織田信長、豊臣秀吉などの擁護により力を伸ばした。秀吉の意を逆撫でしたことによって、利休は切腹させられたが、利休の孫、宗旦に至り、千家の茶道が再び興り、その次子・宗左は「表千家」、その三子は「裏千家」を創立しました。この二流は、今日も綿々として隆盛を誇っています。
 時に、大名からも流祖がでて居ります。遠州流の小堀遠江守政一。石流の片桐石見守貞昌。三斎流の細川忠興。鎭信流の松浦肥前侯。不昧流の松平出雲侯など。
 その他にも、武者小路流。 有楽流。 藪内流。 宗偏流などがあります。 元々は、禅の僧侶が、茶の儀に基き、床に墨蹟を掛け、静座し、喫茶の三昧に入ったのが始まりで、「和敬清寂」を味わうのを第一儀となしたものです。
 きの小堀遠州は、頗る鑑識に富み、名物茶器を選び出し、時代の風潮につれて、益々華美に発展し、後世、高価な茶器、珍味の懐石、複雑な作法、贅沢の粋を極めた茶室、築庭などが行われるに至りました。
 時折の富豪は、これを遊戯化し、茶道の本義を失わせしめたのが、逆に、文化的、芸術的な茶道に変身して発展を続けたのです。従って、今日の茶道は、茶道本来の精神を完全に失ってしまったのです。
 しかし、茶室には、茶がけと言う、床柱に付けられる小さな花器に、一輪の花を挿しまが、これを通称「茶花」と称します。 
 本来、茶道は、侘び(わび)寂(さび)即ち「閑寂」の精神を味わうためのものである為に、茶会に用いる茶花は、至極質素なものでなければなりません。勿論、その季節の庭に咲く花を一輪添えるのですので、例えば「おだまき」などが珍重されます。
 しかし、二十世紀の中頃までは、街の花屋には、必ず、茶花が陳列されていましたが、年々、家庭に日本間が姿を消して行くと同時に、茶道そのものも習う人が減り、結局は、花市場には、茶花の姿が今や完全に消えうせてしまいました。
 然るに、家元に直属の花屋は、心して茶花を遠方より仕入れて家元に納めて居るのを見ると、半ば痛々しく感じさせられます。
 一方、茶室を設える施主も激減し、従って、腕利の宮大工や寺大工もなかなか良い後継者に恵まれなくなって居ります。
 現在も、気安く薄茶を楽しんでいる処があります。それは、遠州から三河、尾張にかけの人々で、作法に拘ることなく、自由に賞味して居ります。
 【参考】 「小野妹子(おののいもこ)」について、少しくお話しましょう。
彼は、推古天皇の朝臣の一人です。607年(推古15年)遣隋使となり、翌年帰国。隋帝の親書を途中で百済人に奪われたとして流刑に処せられんとしたとき、推古天皇がこれを赦し賜い、608年再び隋使・斐世清の帰国に際して遣隋使として同行、隋におもむきました。翌609年帰国しました。
然し、隋朝は、百済侵略で力つき、僅かに30年で滅び、唐朝へと移ってゆきました。

第二章 裁縫
現在の日本の着物の原型は、その昔、琉球王朝の晴れ着だと言う説があります。神社で見る神官の装束は、それとは別で、唐時代の正装にルーツを見ることができます。その双方が調和されて完成されたものが、所謂「着物」であるとされます。
 だが、この着物を作る場合、物差しと言うものが必要になります。しかし、それは、工が用いる尺差とは違って、目盛りが25%長いのが特徴です。
大工の用いる尺は曲(カネ)尺と言い、裁縫に用いる尺は、長い所為か、鯨(クジラ)尺
と言います。
  ことの真偽は定かではないが、鯨尺の原点は、その昔、朝鮮半島の南に百済(クダラ)と言う国がありました。朝鮮のチマチョゴリと一緒に渡来したのが、朝鮮の物差でありました。その物差の目盛は、曲尺のものよりも二割五分長かったので、百済から来た尺、それが詰まって「クジラ尺」となったと言う説があります。唐の文化も、朝鮮半島を経由してもたらされたものが多かったのです。従って、聖徳太子の束帯の装束も、みな唐のスタイルなのです。
 そして、太子が右手に持つ笏(しゃく)の大きさは、曲(かね)尺で言うと、長さ一尺二寸、幅、約二寸なのです。もともと唐から渡来した笏(しゃく)は、当時、唐音のままコツと発音して居りましたが、骨と混同するため、縁起をかついで敢えてシャクと発音させたのです。
 この骨ならぬシャクは、当時、天皇の側近が宮廷で天皇に奏上する文言を紙に書き、それをシャクの上に載せて、読み上げ奏上するための今風に言えば
アンチョコ隠しなのです。
 その寸法と尺とがオーバーラップして、笏もまた、物差し代わりにしてしまったのです。当時、錦を用いての着物は、非常に高価であり、特権階級しか纏うことができなかった時代です。従って、着物を裁断するための基準となる物差しは、百済尺、だんだんと訛って鯨尺となったと言う説があります。まんざら嘘ではないと思われます。
 さて、本物の笏には、その材質が、所持する人によって決まりごとがあります。天皇及び五位以上のお方がお持ちになられる笏は、動物の牙で作られています。幅二寸もあるからには、非常に大きな動物と推定されます。或いは、象牙かもしれません。だが、六位以下家臣の手にする笏の材質は、全て木であり、しかも、その木の種類も決まっています。それは、「一位の木」です。植物に位のついているのは、この一位の木だけなのです。
 徳川の時代になり、神職は、全て、この笏を手にすることに決められました。
 ところで、「一位の木」とは何かといいますと、常緑の喬木で、別名「あららぎ」、「しゃくの木」とも呼ばれます。もともとは、深山に自生していたもので、後に庭園にて栽培さるようになりました。成長すると高さ十メートルにも及びます。葉は、細長く鋭敏で、表面が緑色、裏面は淡緑色。雌雄別木。雄花は、緑褐色、雌花は壜状で、熟すると紅色肉質の仮種皮なして、内には緑色の種を蔵します。花期は3月から4月頃です。古来、主に、笏を造る材として用いられたので、一位の木と言う名があります。
昨今は、縁起をかついで、表札にもこの材が用いられています。
 さて、裁縫には、男子が関わったものが最高とされていますが、多くは女性が携わってきました。
 「男仕立ての着物は、どこか違います。」と言うことは一理あると思います。料理も、「男子すべからく包丁を絶つべし」と言う格言もありますが、本当は男が作った料理の方が美味いのです。
 だが、実体は、裁縫も料理も、女性によるものが多いのが現実です。
 その昔、裁縫を主として教える「裁縫女学校」というものが存在しました。お嫁に行くには、どうしても、男の紋付羽織袴が仕立てられないと、その資格がない様なものでした。
 料理の味付けに至っては、おふくろの味を覚え、嫁ぎ先では、姑の味を覚えるのが通例でした。
 昨今は、浴衣などは、ほとんどが、仕立て済みのものが売られていますし、それも、殆どが made in Chinaですから実に驚きです。
 日本人でありながら、和服で、しかも、一番簡単な「浴衣」でも自分で縫う女性は殆ど希に見るしかありません。

第三章 住まいの建築
 ウダツと言う言葉をご存知と思います。建築の行程で、梁の上に塚状のものをたてて、それに屋根をぐっと受け止める、その塚状の木材を「兌(ウダツ)」と言います。 兌は象形文字で、屋根裏の構造を示しています。
 また、この兌と言う文字は、「喜ぶ」と言う意味があり、中国の古典「易経」六十四卦の一つ、「兌為澤」に見ることができます。その卦の冒頭に、「兌は、亨る。貞(ただ)しきに利あり。」また、「兌は、説(えつ)なり。剛(ごう)中にして柔(じゅう)外(ほか)なり。説(よろこ)んで以って正しきに利あり。ここを以って天に順(したが)って人に応ず。説(よろこ)んで以って民に先だつときは、民その労を忘る。説んで以って難を犯すときは、民その死を忘る。説の大いなる、民(たみ)勧(すす)むかな。」
 よく、「あいつは、ウダツが上がらない奴だ」と言いますが、そのウダツとやらは、この建築用語から起因しています。何しろ、建前をするにしても、梁にウダツをたてて、それに屋根の骨組みを載せて瓦を葺かない限り始まらないのです。重い重い屋根を支え受け止める大切な役目を担っているのがウダツなのですから。
  今から、半世紀前までの住まいの建築の施主は、みんなみんな、材木を一目見ただけで、その品質を始め、木の種類が分ったものでした。
  そればかりではなく、大工の棟梁そこぬけに、建築の施工図を書くことができたのです。勿論、正しい家相を基にです。
 現代は、既にハウスメーカーが建ててしまった、いわば出来合いの家を購入する人が増えてきました。一々、一級建築士の資格を持った相談員に物件の鑑定を依頼したり、或いは、ハウスメーカーの評判のみを信じて購入すると言う誠に無知な事が一般常識となっているのは、誠に残念なことだと思います。
 また、大工も大工で、本当の大工は、非常に少なくなってきました。鉋の刃研ぎや、台直しや、鋸の目立ての出来ない大工が殆どですし、手斧を使える大工も、よほど田舎に行かないと見つかりません。
 なぜならば、殆どの大工は、電動鋸や電動鉋で作業をしているので、刃がこぼれれば、新品と付け替えるだけです。ましてや、曲がった梁の墨だしなんか出来る棟梁は、中々見当たりません。そして、材木にホゾを立てる作業もコンピューター付きの掘削マシーンで行われますので、大工は、丸でプラモデルを組み立てる様な気安さで材木を組み立てているのです。壁も左官仕上げではなく、コンパネや石膏ボードなどで張詰めた壁面に壁紙を貼ると言うのが通例になってしまいました。
 でも、着工に当たっては、施工関係者は、工事が無事に相済む様に祈願する意味で、地鎮祭や手斧始めの儀式を神式によって行っているのは微笑ましいことです。
 次に、神式による「地鎮祭」について、少しくお話しましょう。先ず、地ならしも無事に済み、これより普請に入ろうとする前に、青竹を四方に立てて、注連縄(しめなわ)を引き回し、中央に祭壇を設け、榊と供物(目の下一尺の本鯛と酒)を供え、その土地の神祇を祭壇の中央にお迎えします。
 そして、次の祝詞を奏上します。

み竹に注連縄(しめなわ)引き回し真榊指し添え、これの(地内)とこぬちを、いつのいわさかと祓い清めて、かけまくもかしこきハニヤスヒコの大神、このさとをうしはぎさますウブスナの大神のおお前に、慎みかしこみかしこみもうさく、〇〇の何某い、これの処を千代の住処(すみか)と定めて、新たに家を建てむと、荒草刈りのけ、土踏み均(なら)して奉る御酒(みき)御饌(みけ)に海川野山の多那津物を添えて仕え奉らくを、平らに安らけくきこしめして、堀据える礎(いしづえ)のいや堅らにつき立てる柱の動くことなく、おお風、おお水の災いなく、ないかぐ土の禍なく、かきはにときはに守り、さきはひ給えと、かしこみかしこみももうす。
 処で、みなさんは、「産土神(ウブスナのカミ)」と言うお名にお聞き覚えがあるかと思
います。
 これは、各人が生まれた、その土地の神で、人々が、その産土の神に守られていると信じています。よって、人々は、この神に対しては「産子(うぶこ)」であり、それが転じて、現在では、「氏子(うじこ)」と称しています。
従って、氏子が出世して他郷に移り住んでも、産土の神のご加護は、離れることなく戴いておるものなのです。ですから、郷帰りをした時などは、いの一番に、産土の神を詣でて、
日頃のご加護にお礼を奏上するものなのです。
かかる信仰は、世界広しと雖も、日本の神道のみであり、他国には見られない美しいもののです。

第四章 東西南北天地
  地図を書くときに、一番忘れてはならない約束事が一つあります。それは、描く用紙の上方が必ず「北」であることです。
  従って、矢印で、北が示されていない地図は、必ず上が北と言うことです。もしも、上が北でない場合は、紙面の余白に、矢印を描くことです。そして、その矢の方向が北と言うことです。
  だが、現実に、昨今の人たちの描く略式の地図でも、その矢印さえ見当たらず、何も印がないから、上が北と思っていると、大きな間違いを起こします。
  自動車に搭載してあるGPSによるナビコンも、現代のものは、車の進行方向に合わせたマップが現れます。勿論、運転する方にとっては、この方が非常に好都合です。それは、コンピューター・ロボットが安全にドライバーをエスコートしているからなのです。
  なれど、器械物は、いつ故障するかもわかりません。もしもの時は、肌で東西南北を感じ取らなければならないのです。
  従って、お月様の仰角や方向を見て、いずこが北か、北斗七星や北極星やカシオペアを発見して、北極方向を見定める習慣を普段からつけることが肝要です。また、夜、曇天の時など、街の明かりが空に反射することで、どの方向に街があるかなど、とりわけ、現代の若い方々には、勉強して頂きたいものです。
  また、風が吹いてくる方向や、その冷たさから、天気の変化を予測することなど、器械ばかりに頼って、本来人間のもつ天気予報の本能的感知力を退化させることは好ましい
ことではないと思います。
  古代中国で五千年もの長い歴史の中で培われた「気学」によりますと、東北と南西の線を「変化線」と呼びます。日々刻々と変わる気の動きが、この変化線に入った時には、必ず大きな変化が生じると言う論理なのです。
  簡単な例と言いますと、関西では、京都の人と大阪や堺の人とは、しょっちゅう中が良くないのです。表向きは、その様に見えませんが・・・・・。  それは、前述の様に、変化線の中での交渉や行き来だからなのです。従って、同じ関西弁でも、京都弁と大阪弁は、全く違います。当然のこと気質も違うのです。
  特に、中国、明朝が滅び、代わって清朝になった時は、国民は、非常に危険を感じていました。清朝の皇帝は、中国の東北部からやってきた連中だからです。その目の上の瘤の様な処に、清朝最後の皇帝を仕立てて、日本が満州国を建国したのです。従って、中国
中央部は、いかばかりか日本を脅威に感じておったに違いないのです。いま茲に面白い実例をお話しましょう。
  東京の銀座の和光前の交差点を思い浮かべて下さい。あのメインストリート、即ち、中央通は、一丁目から八丁目に向かって東北から西南方向に走っています。当然、勝鬨橋方向に向かう大通りは、西北から東南方向に走っています。
  そうすると、和光は、交差点を会して西と北の角地に四角く位置していますので、高級品を扱う店としては大繁盛をするわけです。気象に喩えれば、お客は、低い南方向から上昇気流に乗って、より高地である北の和光へと靡いてくるのです。しかも、店舗の入り口は、東側と西側に設けられ、南側は、ショーウインドウでガラス張りなのです。
  その対角線上に位置する一角は、雑居ビルが立ち並んで、これと言ってデンと構えている大きな建物はありません。それは、交差点を会して、西と南に挟まれて位置するからなのです。
  また、ソニービルは、交差点の西側に位置し、東に出入り口が設けられているので、わりと小型のビルではあっても繁盛しているわけです。
  だが、その反対側の三越銀座店は、主たる入り口が、交差点の角にあり、殆ど真西を向いていますので、思った程顧客が定着しないのです。少しでも多くの顧客を引き込もうとて、地下にフロアーを増やしたのですが、なかなか落ちってい買い物をする気分になれないのが欠点と言えましょう。概して銀座は、中央通の北側の店舗が南側の店舗よりも、客の入りが良いのは、それぞれ、東南(巽)に店舗が向いているからなのです。松屋や松坂屋側は、顧客の方が威張ってしまうので、なかなか言い値では物が売れず、常にバーゲンセールをやらざるを得ないことになります。

第五章 切り出しナイフ
 昨今の小学生は、ナイフで鉛筆を削ることも、ナイフで色々な遊び道具、例えば、「竹トンボ」も作ることをしない。
 軽く指先でスイッチを押せば、お風呂のお湯も沸き、自動的にお湯の温度の調整と保温ができる。
 洗面所で手を差し出せば、センサーが感知して、蛇口から自動的に水がでる。
 竃がないから、薪もいらない。従って、薪を割る斧もない。斧もないから刃物を研ぐと
言うことも知らない。
 台所でも、料理に用いる文化包丁は、みんなステンレス製かセラミック製。そこで、それらの刃を研ぐことも知らない。また、どうしても研ぎたければ、電動式の刃研器械が、一瞬の内にやってくれる。
 そこで、現代人は、刃物の危険性と重宝性を全く知らない。刃物は、決して人を危めるものではないと言う観念も驚くほど薄い。
 半世紀昔までは、子供の筆箱には、必ず「切り出しナイフ」が入っていた。
このナイフは、もともと日本の伝統に基ずき、鋼と軟鉄とを合わせて鍛造した片刃のナイフだ。その為に刃研ぎは、両刃のものよりも、ずっと簡単に早く研げる。そして、使い方によれば、間に合わせの裁ち包丁にもなる。簡単な彫刻の荒削りや、仕上げもできる。要
するに、小物を細工するに便利な万能ナイフだ。
 昔の子供は、竹トンボ程度は、自分で作ったものだ。羽の傾斜角を変えることによって、飛び上がり方も異なり、軸の長さの違いによって、竹トンボの安定度が違ってくる。だんだん面白くなって、沢山造っている内に、色々と航空力学というものを子供なりに覚えてしまう。理屈よりも実践の方が面白くなってくる。そして、「なぜ竹とんぼは飛ぶのかな?」
と言う疑問も湧いてくる。
そうすると、中には、それを論理的に解明しようとする気持ちが芽生える。
 そして、子供達は、刃物の素晴らしさを知って、決してそれを人を危めることには使わないことを、他から言われなくても、子供なりの理性で理解して行く。
 だが、希に、気性の荒い、怒りっぽい子供が、切り出しナイフで、友達を危める場合がある。そんな時、先生や親達が、異口同音に、「一切ナイフを学校に持ち込ませない」と言えば、多くの真面目な子供達に、「ものつくりの興味」の芽を毟り取ってしまう。
 世の中、「危険と安全」とは、常に車の両輪、本の表紙と裏表紙と同じ様に、一体で存在している。 常に安全を願うのは当然のことである。従って、安全の中でも、常にチェックをする姿勢と言おうか、その習慣を心に植え付けなければならない。
 かかる習慣こそは、人間、幼い時に、「切り出しナイフ」を使い始めて、自然に「危険と安全」が身体で覚えて行くのだ。 従って、幼児の教育に携わるものは、この辺で、よく反省して、振り出しに戻るべきだと思う。

第六章 師事の心得
 色々と習い事をしている現代の皆さんに「そくしゅうって知っていますか」と質問すると。「速習」を意味する様な答えが返ってきます。要するに「如何にしたら速やかに習い覚えるか」と言うのが答えですので、実に驚きです。
 世の中全てが、「急げ急げ」のムードだから致し方ないとしても、「束脩」と答える人は、先ず皆無に近いのです。
 では、「束脩」とは何か? それは、弟子入りをするときに、言い換えれば、師事するときに、師に差し出す礼物のことで、その昔、中国に於いて、入門、弟子入りの時に十片の干し肉を束ねたものを礼物としたことが、そもそもの基なのです。
 ですから、月々に納める月謝とは全く性格の違うものなのです。昨今の辞書から「束脩」を引くと、単に「月謝」と書いてあるものがありますが、これは大きな間違いなのです。
 生け花や茶道や裁縫など、初めて師に師事する時、勿論、入門が許された時、師に差し出すのが、月謝とは全く性格の違う、御礼、即ち「束脩」を納受願うのです。
 日本では、中国の故事とは違って、干し肉ではなく、分相応の「お金」です。
 子供が「六つの手習い始め」で、例えば、ピアノを習う様な場合。先生に親子共々師事のご挨拶をする場合、親が忘れずに「束脩」を用意して行くのが礼儀なのです。月謝は、月謝として、別に納めると言うことなのです。
 要するに、何が「お礼」と言う習慣を忘れさせてしまったのか。よくよく考えて見ますと、戦前までは、日本には、「寸志」と小型の祝儀袋に上書きして「心づけ」を渡す良い慣習がありました。外国流に言えば、感謝の気持ちを形に表した「チップ」です。その「チップ」を渡すと言う習慣を断ち切ったが故に、今や、日本人は、感謝とか御礼とか、相手の努力に対して労うことを忘れてしまったのです。
 だが、「チップ」は、そもそもが、給仕などに、世話になったと言う感謝の気持ちで渡すものであって、同等とか目上の人にお受け取り願うのは、「御礼」なのです。この点、間違っても混同してはなりません。
 また、会社などで、経営者にしてみれば、従業員が、何か特別な良いことをしても、給料を払っているのだから、「それくらい当たり前」と言う感覚になってしまいました。
 先生が弟子の祝い事に招待される様な場合は、予め、弟子は、「斯様しかじかで、是非とも先生のご臨席をお願い申し上げます云々」と、何がしかの金員をもってお願いに上がるのが常識でした。 だが、昨今は、何事も、先生は弟子達と同格で「割り勘」なのです。不思議な世の中になってしまいました。
 近代落語の中に次の様なのがあります。友人同士五六人集まって、すきやきを食べに行き、宴も終盤に入り、手をたたいて、「お姐さん、あがり!!。」「はーい畏まりました。」上がりをもってきたお姐さんに、「それから、おあいそう!!!」。するとお姐さんは、暫くして伝票をもって、挨拶にきた。
 一方、伝票をもってくる迄の数分の仲間の会話が実に愉快。「おい、みんな、美味しかったな。話も弾んでとても楽しかった。楽しかった序に、おいお前、今日の処は、お前が一人で、全部勘定をもて。みんなで割り勘にしたら、今までの楽しみが吹っ飛んでしまう。だから、お前が一人でみんなの分を払えば、もっともっと楽しくなる。序に、お姐さんにチップも弾んでおけよ、お前!!。

 如何ですか、この会話!?!?


第七章 天候の予測
     (但し、日本列島の場合)
 
1) 人間。

      人は、天地の気を受けて生かされる生き物であるによって、自然の移り変わりに相応じて身体に変化を来たすものなのです。

      それ故に、常に心を静めて無欲になりさえすれば、自ずと、天候、即ち、晴雨風雪の如何を予知しうるものと信じてよいと思います。

天まさに雨降らんとする時は、日頃持病のある人は、必ず病発して悩みます。
また、普段健康の人も、なんとなく身体がだるくなり関節のあちこちに弛みを感じます。
更にまた、年頃の女性は、やたらに眠気を催したり、頭が痒くなります。耳たぶが熱く感じる場合は、雨天の前兆です。

   2) 植物。
      梅、桃、杏、李などが実り多い場合。翌年の農作物、麦、米などは豊作とみて宜しい。
   
      同じく、梅、桃、杏、李などが害虫の被害なければ、穀物は実りと推定して宜しい。

      もしも、杏の花が、四月、清明節に咲くを見れば、翌年は雨多き
     年になる筈。

      桃李の実り多い年の翌年は、その果実のつきは思わしくない。

      川辺に行きて、葦の葉に節が見られる時は、大風に見舞われる。

      桜の返咲き多い年は、その翌年の作物は凶作。

   3) 魚。
    魚が水面に浮かび、時々踊って水面より飛び跳ねれば、雨となる。もしも、30センチも高く飛び跳ねるならば、風雨が強まる。

    金魚が水面に浮かび、口を上に向けて泳ぐときは、雨天の前兆。

4) 昆虫。
蟻が平地に群れをなした時は、雨が近い。

トンボが群れをなして飛び交うときは、風の前兆。

雲が糸を張りだすときは、晴天の兆。

反対に、糸を吊るときは、まもなく雨が降る。

5) 山 川。
遠くに見る山の色が艶やかに見える時は、晴。もしも、どんよりと見える時は、まもなく降雨。

      山や川より水蒸気が盛んに立ち昇るときは、まもなく降雨。
     また、渓谷から白雲、白霧俄かに立ち上る時は、間もなく驟雨にあう。

6) 鳥。
    鳶や烏など、大木の高い処の枝に巣づくりをする年は、穏やかな日和。

  もしも、低い処に巣づくりをする年は、必ず大風に見舞われたり、洪水にあう。

  燕が例年より遅く巣づくりをする年は、農作物は不作。

  渡り鳥、「雁」が例年より早く飛来する年は、寒さ厳しくなる。

7) 天。
  
  天うららかに、一点の雲ないと見るは、三日を待たずして雨が降る。

  日の出前に、東方、朝焼けが赤く見える時は、大風となるか雨。

  日の入りの後、西方が美しく紅に見える時は、翌日は晴天。

  日の入りの後、西方が著しく不気味に赤色に見える時、大風または雨。

  日没後に、西方に暗雲を見る時は、翌日は雨。

  長雨が続けば、暦に上で、「かのえ」、「ひのえ」、「ひのと」の日には 必ず晴れる。

おわり

                             不許複製




六本木ヒルズの新しいスタイルの図書館
仲津真治

明けまして、おめでとうございます。

新年早々、新しい話題を提供したいと思います。
所は東京都心の六本木に、巨大な森タワーに代表される六本木ヒルズが登場したのは昨年のことです。
凄い人気を博し、大勢の人で満ちあふれています。住んでいる人、勤めている人も多数いますから、あのような場所に居ると大変だろうなと、人ごとながら心配になります。
ところで、この六本木ヒルズは大きなコンプレックスで、形状や階の構成が複雑なものですから、一体どこに居るのか良く分からず、防災や安全の面で大丈夫かなと思うことがあります。 地上付近や地下の喧噪の中にいると、特にその感がします。
しかし、この喧噪とは、まるで別の静寂な世界が、この巨大ビルの中にあります。 それは、その最上階に近い49階にあるアカデミーヒルズです。 そこに、新しい考え方で作られた図書館があります。 
でも、普通の図書館と全く違うのです。 固い言い方をすれば、それは図書館法に言う図書館ではありません。 江戸・東京博物館が博物館法に言う博物館でないのと似ています。 しかし、民間企業である森ビルが設け、経営する点では、公立である江戸・東京博物館とも違いますね。 昨年末、見学の機会を得ましたので、見聞したところを記しましょう。
第一の特長は、会員制です。 二種類ある会員のどちらかに、会費を払ってならないと、この図書館は使えません。 設置・経営体である森ビル(文化事業部が担当)の収益源は、この会費です。 
会員には、図書館の全域を使え、中でも、利用時には専用となるオフィスなどを利用できるオフィスメンバーと、そうでないコミュニティメンバーがあります。 
前者は、年中どの日でも、24時間使えます。五人まで受け入れ可能な応接室も使えます。そうしたことを支える設備と体制が取られているのです。 その分、会費は高く、入会金が三十万円で、月々の会費が六万円必要です。
後者は、利用出来る空間や設備が限定され、時間も朝8時から夜11時まで限られますが、入会金は一万円で月々の会費は六千円です。
中に、ライブラリーカフェがあります。
また、同じ階にある六本木フォーラムには、大中小の会議室やホールがありますが、図書館(六本木ライブラリー)の会員は、自ら主催する会議などに使えます。 料金は必要です。
もっとも、こうした有料図書館というコンセプトは、公立の図書館には受け入れがたいものであるらしく、ごうごうたる非難が寄せられていると伺いました。 曰く、図書館は、公平、無作別、無料公開であるべきだと言うわけです。
一方、見学して、目から鱗が落ちたという、公立の方の感想もあるそうです。
第二の特長は、新しい本を中心に本を並べていると言うことでしょう。選書委員会があって、そこで選ばれた、せいぜい、ここ二年くらいで刊行された新刊書が沢山、置かれています。 本屋には置いてあるか、或いは、そろそろ無くなっているが、普通の図書館には、まだ全然置いていない本を探したいと思えば、ここで見つけられるという趣向ですね。 こうした需要は結構あるようですね。
また、廊下の書棚に並べられた本を回遊しつつ眺めていますと、「ほお、こんな本があるのか」という発見があり、思わず紐解いてみようという気になると申します。
第三の特長は、本の館外への貸し出しをせず、どうしても必要な場合は、範囲が限られていますが、定価で購入してもらう方式を取っているということですね。 図書館が本を売るとは妙なことですが、これも新しい考え方でしょう。 もちろん、館内の読書は自由です。
では、会員数はどれくらいなのかと言うと、かなり増えてきていて、オフィスメンバーは約百五十名、コミュニティメンバーが約八百名程になり、いずれもその倍くらいになると、スペース面での余裕がなくなるので混雑を避けるため、新規入会は停止と言うことになるようですね。 これまでのところ、前者は40代の人が多く、平均すると45歳辺り、後者は25歳から35歳の人が中心と申します。
はてさて、この試みが定着し、成功するかどうかは、始まって、まだ一年にもなりませんから、まだ分かりません。 収益を上げるべき事業ですから、「赤字のままでも、いつまでも続ける」という分けには参らないのです。
でも、コンセプトは新しく、良く考えられ、工夫されています。諸外国に例がないと言うのも、興味を引く点です。
民間企業が、寄付ではなく、自ら設置して有料で運営する図書館というものが、世界で初めて、日本に登場したと言うのは、この国の独創性に新たな光りが差し込んできたような感じすら受けます。
そこで思い出すのは、関西文化学術研究都市の一角に開設され、好評を博してる「私のしごと館」ですね。この世にある、様々な職業・仕事を、実演と、その現実の成果を見せることにより、紹介・理解させ、適性発見と職業選択に資するための施設ですが、全国から修学旅行その他による見学者の波が続いていると申します。 私もこの目で実体験しました。
この「私のしごと館」も、労働省(現厚生労働省)やその下にある機関が考えた、日本オリジナルのものです。
世界に類例のない施設やその運用が、この国の民間企業や官庁によって考えられ、創始されたと言うのは、私どもの国や社会の独創性・創造性について、認識を改めさせる契機になるかもしれません。
批判も大切ですが、建設的な思考や取り組みは、それよりまして大事なように思います。有り難うございました。

以上、私の書いたことに間違いがあってはいけませんし、より詳しく知りたい方がいらっしゃると思いますので、次に、それぞれのホームページのアドレスを記しておきますから、
ご参照頂ければと存じます。

六本木アカデミーヒルズ ホームページ

http://www.academyhills.com/library/

私のしごと館 ホームページ

http://www.shigotokan.ehdo.go.jp

なお、ご見学などの際は、ゼンリンの住宅地図や電子地図をご参照下されば、大変、便利です。

ちなみに、以下のURLで六本木ヒルズの地図をご覧いただけます。

http://www.its-mo.com/m.htm?E=Fi3IJ1m-S70


 阪神・淡路大震災から九年 
  「自ら被災し、対策に奔走した日々」を聞く    
    ・・・・防災の集い:第4回・・・・
    

                              仲津 真治

                 
 去る平成16年(2004年)1月31日(土)午後2時〜午後5時に 茨城県取手市の福祉会館2階 B1・B2会議室で、防災を進める会代表仲津 真治(元国土庁審議官、元国土庁防災企画課長)主催し、共催として取手フォーラム代表 田中 秀氏、 後援:茨城県消防協会、茨城県取手市により「阪神・淡路大震災から九年「自ら被災し、対策に奔走した日々」を聞く」・・防災の集い:第4回・・が開かれた。講師は 柴田 高博氏(しばた たかひろ)氏(元兵庫県都市住宅部長、現国土交通省総括審議官)(入場料無料・資料代等として、500円) で開催された。
出席者は、地元の取手始め、茨城県南各地はもとより、県北、県西、さらに、千葉、東京、愛知など遠方にも及んだ。その数は予想の三倍近くになったので、急遽、各テーブルの席数を増やし、椅子席も多数用意させて頂いたくらいであった。
 阪神・淡路大震災から九年経つとは言え、あらためて、あの大地震のもたらしたものの根深さを知るとともに、関心の大きさを再認識した。 また、国会、政府、県など各方面から、思いのこもったメッセージ等を多数賜ったことも、同様の背景があると拝察された。心より、感謝したい。
 さて、そうして開かれた集いであったが、誠に充実したものとなった 中味は濃く、凄まじい体験談であった。 講師の柴田国土交通省総括審議官には、休日を返上して取手まで来て頂き、発災当時の兵庫県都市住宅部長として、自らも被災した恐怖の体験に始まる凄まじい日々を語って頂いた。
 始めは、大きな振動装置の上に乗っている夢かと思っていたら、物がどんどん落ちてきて現実と知ったこと、それでも、なかなか地震とは思えなかったこと、真っ暗闇の中、兵庫県庁に灯りがともっていたのを彼方に見て、ほっとしたこと、急ぎ、出勤しても数名しか来ておらず、電話、緊急回線などいずれも通じず、何処とも連絡が付かなかったこと、至る所、道路が閉塞している中、知事を迎えに行き、午前八時過ぎに県庁に戻り、災害対策本部を立ち上げたこと等に始まり、それからの二年余りの体験、避難所、仮設住宅づくりなどの応急対策、復旧・復興の取り組み、特例立法の要望と実現、非難を浴びながらの説得や苦労の数々が語られた。
 それは、災害対策に当たるべき地域の中枢機関自体が被災したときの打撃の大きさと深刻さを、如実に物語るものであった。
 また、隣の府県に限らず、公民に亘る全国各地からの支援、応援は、実に有り難かったとのことでした。 
 ひとつひとつ、思い出しながら、時折、涙声になることもある熱弁に、出席者一同、真剣なまなざしで、聴き入っていました。 
「まるで、自分が体験の主人公になっているようだった」と、リアルな印象を語ってくれた方がいますが、それほど、心に刻まれるのでした。 講師御本人が「実は、あまり語りたくないのですが、・・」と始めに話していたことが、あらためて、よく分かった。 ひと渡り話が終わった後の質疑ややり取りも、身近に震災を意識したテーマから、広域の交通網の課題に至るまで、極めて内容のあるものとなった。 阪神淡路と同じタイプの南関東直下型地震の切迫性が想定され、東海、東南海、海の巨大地震が現実味を帯びて論じられる中、今回で四度目の、この防災の集いを、一同、これからも続けていこうと考えている。早速、講演会終了後に、これからの取り組みの方向やテーマについて、講師の方のアドバイスも得ながら、打ち合わせを行った。

思いは叶う
加藤良一
何気なく見ているテレビ番組が、思いもかけぬほど時間と労力をかけて作られていることをあらためて知った。
 番組1本を作るのに、取材した資料が段ボール箱で35から50箱も積み上がる。テーマの関係者インタヴューから始まり、撮影、資料集め、分析、そしてまた再調査とたいへんな手間がかかり、ほぼ3ヶ月半から5ヶ月近くも制作に費やされている。その番組とは、NHKの「プロジェクトX─挑戦者たち」である。番組をプロデュースしているのが、チーフプロデューサー・今井彰氏である。
 今井氏が横浜国立大学の同窓会で行った特別講演『日本人が成し遂げてきたこと』を掲載した同窓会誌を同大学OBの方からいただいた。その記事は『日本人が成し遂げてきたこと』と題がついていて、今井氏の講演をテープから起したものである。番組制作の苦労話しや意義について熱く語っている。

 この番組のどこに共感をおぼえるかというと、目線が庶民の高さにあることだろうか。「日本という国の戦後を考えます時に、昭和20年8月15日に科学も技術も文化も全て根絶やしになるような状況の中から、今の日本が立ち上がってきたということを考えますと、これは決して国家的あるいは政治的なスーパーリーダーが現れて率いた国では全くないという事だと思います。それこそ、数千数万のプロジェクトが生れ、そこで懸命に生きた多くの日本人、それこそ一言で言ってしまえばもうこれは中小企業と、そこで生きるサラリーマンの物語につきると思っております。」
 今井氏自身、「決して順調なサラリーマン生活を送ってきたわけではありませんでそれこそダメサラリーマンと言われた時期がずいぶん長くて、会社を辞めようかなと思ってずいぶん悩んだ時期もございますし、やる番組、やる番組うまくいかず苦しんでいた頃がありまして、(中略)… 転々としていますときに、有線から中島みゆきさんの『ホームにて』という歌が流れてきたんですね。どういう歌かといいますと、“ふるさとに向かう最終に乗れる人はいそぎなさいと、やさしいやさしい声の駅長が街中に叫ぶ”という歌だったんですが、それですごく気持ちが癒されたんですね。」
 以来中島みゆきのファンになってしまったという。そんなことから「プロジェクトX─挑戦者たち」の制作にあたって、どうしても中島みゆきに主題歌を歌って欲しくて企画書を何度も何度も送り続けた。その熱意が伝わったのか、中島みゆきは、ほかの仕事をキャンセルしてオープニング曲『地上の星』とエンディング曲『ヘッドライト・テールライト』を書き下ろした。 
地上の星

風の中のすばる/みんな何処へ行った/見送られることもなく
草原のペガサス/街角のヴィーナス
みんな何処へ行った/見守られることもなく
地上にある星を誰も覚えていない/人は空ばかり見てる
つばめよ高い空から教えてよ地上の星を
つばめよ地上の星は今何処にあるのだろう 
草原のペガサスも街角のヴィーナスもみんなふつうの人たちである。そのふつうの庶民がじつはこの日本という国を支えてきたのだ。いまは時代も変り庶民は疲弊し始めているが、きっと地上に散らばる星たちがまたもや立ち上がってくるのではないかそんな予感がする歌である。
 番組作りにはさらにもうひとつ重要な問題がある。番組の背後に流れるナレーション、それこそ何気なく聞いているが、じつはかなり大切な役割を演じている。「… やっぱり声がすごく大事だと思ったんですね。それはなんといいますか、もっとうまく読める人はもっとたくさんいると思います。それから冷静に読める方もいると思います。… ダビングルームで田口さんの声を聞いた時に、皆さんがふりむいてですね、この声だと。非常にりんとして美しくてそれからいやらしくなくて耳に届くという、それこそ何十年に一人の声に出会えた。」
 ナレーターの田口トモロヲとの出会いを「たぶんこの番組を守るために下さったんじゃないかというぐらいに、本当に運命的なものを田口さんにはいただきました。」と語っている。
 中島みゆきと田口トモロヲの起用が決まったものの、今井氏は番組作りのなかで他の民放ではみられないNHKならではの難問に直面してしまった。つまり、企業名や商品名をどうするかだった。たとえば、庶民がやっと自家用車を持てるようになった“スバル360”を単に小型軽自動車だのてんとう虫だのというだけでは、あの時代を象徴するインパクトが伝わるはずなどない。今井氏はそんな思いから、企業名や商品名の公表にこだわった。その結果、堂々と企業名と商品名を押し出した共感の持てる番組ができ上がった。おそらく過去にそんな例はないだろうし、今後もないかもしれないほど異例である。
 いわゆる見識ある方々から「なぜ一企業の名前を公共放送に乗せるのか」と苦情が出ることを危惧していたが、いまのところそれはまったくの杞憂にすぎなかったようだ。
 また、テレビの影響力がいかに大きいか、それに群がりたがる人種の出現など、どろどろしたエピソードもいくつか紹介されていた。
 オリンパスが開発した胃カメラの番組のときであった。実際に胃カメラを作り上げた医師と技術者の二人は、自分の家族にもほとんどそんなことを話さないくらいそのことを出世に使わなかった。大半の日本人がそうであるように、仕事のことをあまり語らずに生きているのだが、なかにはやはり功名心がある人がいるもので、なぜ俺のところに挨拶に来ないんだとクレームがついた。その人とは日本内視鏡学会や癌学会のボスになったような連中のことだという。この種の話は挙げればきりがないほどたくさんあるらしい。
「プロジェクトX─挑戦者たち」はいまや2500万人以上の人たちが見ているという。うれしいというか、驚いたのは、以外にもこの番組を若い人たちが見ていることである。手紙やメールで、番組に出てくる人たちを指して“カッコいい”というそうだ。
「東京タワーの現場監督だったり、液晶開発に取り組む営業マンだったり、食品開発に汗を流す研究員だったり、そういったサラリーマンたちがカッコいいという手紙やメールなんです。それでそんな美男子は一人もいないんですね。顔はすごくいい顔しているのが多いんです。」 
 ヘッドライト・テールライト
語り継ぐ人もなく/吹きすさぶ風の中へ
紛れ散らばる星の名は/忘れられても
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない 
この番組に登場したことがある、南極の越冬隊長を務めた西村誉三郎氏(注)は「出る杭は打つな。手を添えて伸ばしてやれ。」と言い続けたそうだ。「日本人はやはり資質と発想に満ちた民族なんだ、その時にそれを閉ざしたり、押し込めたりした時に日本という国はだめになるぞということを、昭和20年代、30年代に彼は言い続けたわけですね。」

(注:西村誉三郎ではなく西堀栄三郎氏のまちがいではないかと思う。講演者の校正を受けていないため、固有名詞などに未確認の箇所があると断っているからたぶんそうであろう。)

 今井氏はつぎのようなメッセージで講演を締めくくった。
「思いは叶う。努力する人間を運命は裏切らない。どんな逆境の中でも道は必ず切り開ける。思いは叶う。」


北海道開拓の記録(2)
2002年春 岩国・平郡島を訪ねて
川戸龍夫

姉弟で父母の出身地に行く
この旅のきっかけは、2001年8月に岩見沢市の市史料館を訪れて、父祖のルーツを尋ねたことが始まりである。そのとき市の嘱託中野尚幸氏に偶然に出会った。中野さんは開拓の時の入植者の系譜を調査中で、協力を依頼された。それから川戸家の系図を作ることが始まり、一先ず年末に完成した。この系譜作りが今回の旅行につながったのである。

岩国・錦帯橋のほとりで
2002年4月23日(火) 岩崎ふみ、岩川満恵、川戸龍夫の三人は父母の故郷を訪ねることにした。まず父の出身地、山口県岩国市錦見町を目指す。
午前10時羽田発、広島に12時到着。在来線JRに乗って岩国に着く。生憎の霧雨である。錦帯橋のそばの岩国観光ホテルに泊まる。岩国は毛利藩の支藩、岩国藩(吉川家)の城下町である。川戸家はこの藩に属し、祐筆をしていたと聞いている。戦災にもあわず、錦川のほとりに昔の家並を見ることができる。
観光地図を頼りに近くの錦帯橋を渡り、吉川家にゆかりの深い吉香公園にでかける。ぼたん園の中に徴古館と称し古い資料を管理している館があった。そこで川戸家の古い系図と古地図を見せてもらい、浄福寺(菩提寺)の住所と移住前の住んでいたところが判明した。翌日はそこを訪ねることにした。

4月24日(水) 雨は上がり、幸い薄日がさしてきた吉香公園(吉川史料館は休館)を通り抜けロープウェーに乗り岩国城に行く。この城は近年復元したもので、折角築城されたものが、徳川幕府の命令で廃城になったもの。丘の上からは眺めがよく、錦川が綺麗に見えた。公園に入るところ、柳のそばに佐々木小次郎の像があった。有名な錦帯橋を渡り(有料220円)、南に延びる道が錦通り。浄福寺は錦見四丁目にあり、450年前に建てた寺という。住職に会ったが古い過去帳はないので川戸家はわからないとのこと、仏壇を拝んで帰る。昔の家があった場所は錦見五丁目、西光寺のそばにあった。


    柳井市平郡島に渡る
この島は柳井市からフエリーで一時間半という不便な離島である。母の実家
青木家は山口県柳井市平郡東から出ている。青木金次郎の四女キヨが川戸清人と結婚した。同じ平郡島の大野家・長谷川家とも親戚である。
平郡島は「柳井市の南20Kmの伊予灘に浮かぶ東西に長い島。地形は急傾斜地が多く、段々畑が山の上まで続いている。集落は島の東端の北岸と西端の入り江にある。農業と漁業がおもな産業で、みかんとタコが主である。島の周囲は好漁場で多くの釣り客が訪れる。」とあり平成11年3月末に379世帯、人口672人とある。過疎地で老人が多く、東浦の小学校は今年最後の卒業生を送り出したという。商店は農協の販売店だけ、老人療養所が目立った。
ここの民宿大野屋さんに2泊お世話になる。25日朝からライトバンで島中を案内してもらった。朝9時民宿を出て、村の鎮守海童神社(八幡社)に登る。

海の守り神であろう。村の世話人がわざわざ立会いお神酒を頂く。お祭りは大いに賑わうとのこと〔伝説に約八百年前、木曾義仲の幼児平栗(へぐり)丸がこの島に落ち延び、幼くして死んだという。これで平栗(へぐり)島と呼ばれ後年、平郡島の名の由来と伝えられている。〕昔この神社には不思議なことがよくあったそうである。境内に岩見沢に移住し成功した人が奉献した狛犬と名碑を見る
つぎに青木家のゆかりの寺、海蔵寺を訪れる。14世紀前半に創建された曹洞宗のお寺で小高い丘の上にあり、境内に流れ着いて成長したという大蘇鉄(天然記念物)がある。住職は不在、仏壇を拝んで辞する。北の海岸線をドライブして西浦を目指す。瀬戸内の美しい海を眺めながら1時間半、赤石神社・蛇の池などを見物し西浦に着く。道が通じたのは近年のことで、昔は船で行くしかないので、東西の交流はあまりなく意外と疎遠であったとのことである。
西浦では石段を登り氏神様の道重八幡宮にお参りする。西浦は長谷川家の出身地で、ここにも同じ狛犬と奉献の石碑がある。いずれも明治17年から24年にかけてこの島から北海道岩見沢に移住した33名の人々が、開拓の成功を記念して故郷の神社に狛犬を奉献したのである。

隣の周防大島には柳井から橋が掛けられ便利になった。忘れられた平群島は静かな離島である。青木家の足跡は見出せなかったが、ルーツに触れることが出来たのは幸いであった。



〔戸籍簿に記載されている物故者名簿〕
(川戸家の墓地改葬のため調査した。)

             
川戸匡行 彌兵衛長男 天保8年6月25日 山口県玖珂郡錦見村603にて出生
明治18年8月5日山口県岩国から岩見沢村に移住。  
1907年(明治40年)60月30日岩見沢村にて没。
妻 タカ 岩本宗三郎長女 1853年(嘉永6年)12月16日山口県玖珂郡錦見村
にて出生。 
    1942年(昭和17年)2月23日岩見沢町4条西12丁目にて没89歳。
清人 匡行長男 1873年(明治6年)9月2日山口県玖珂郡錦見村にて出生。
    父と共に岩国から移住。
    1954年(昭和29年)1月27日岩見沢市4条西12丁目にて没、81歳。
妻 キヨ 青木金次郎四女 1883年(明治16年)12月7日山口県大島郡平郡
にて出生。兄青木寅太郎と山口県平郡島から移住。
    明治32年9月18日清人と婚姻入籍届出。
     1949年(昭和24年)3月9日岩見沢市4条西12丁目にて没66歳。
  義行 清人長男 1906年(明治39年)1月4日岩見沢村4条西12丁目にて
出生。
     1950年(昭和25年)9月7日板橋区板橋3丁目にて没44歳。
  光雄 清人次男 1908年(明治41年)10月15日岩見沢村4条西12丁目
にて出生。
     1934年(昭和9年)11月27日荒川区南千住にて没26歳。
  
  (1998年8月13日に教会墓地にはタカ・清人・キヨ・義行・光雄と義行の
子紘昭の6体を納骨した。)
         
〔墓地の改葬〕
川戸家の墓は、岩見沢町営の共同墓地(利根川墓地)にあった。昭和初期に
松本家・森川家と3基の墓を恒久的なコンクリート造りとした。この墓石も
風化が進み、土台が傾いてきたので新しくする時期が来ていた。
清人の子供・孫と相談し次のように決める。
@新しい墓石は造らないで、遺骨は岩見沢教会墓地に移す。A施主は川戸孝行
費用は子供・孫たちが負担する。B時期は1998年8月とし、主に川戸龍夫、
伊藤栄子が担当する。

墓地移転の経過
1997年(平成9年)8月 準備のために日本キリスト教団岩見沢教会佐藤
牧師を訪問し、教会墓地に改葬したいことを申し入れ了解を得る。具体的に
方法、手続きなどを相談し、墓の移転は翌年8月に行うことにする。
(岩見沢教会は父清人が創立時代からの関係があり、現在岩川の妹婿菊地
祐一・智子さん夫妻が役員である)。
1998年(平成10年)4月 旧墓地の遺骨を取り出し収納する。伊藤栄子他
3人の孫が立会い、遺骨の保管は伊藤栄子がする。
1998年8月13日(木) 11時 納骨式 於:岩見沢市営緑ヶ丘霊園の教会墓地
司式:佐藤幹雄牧師。出席者32名、式後会食する。

移転費用(主な費用) 墓石解体費用 100000円
             収骨料    30000円
           墓碑彫刻料  150000円(6体分)
納骨費     60000円
牧師謝礼    30000円








青春18キップの旅
小諸の「シェイクスピア美術館」を訪ねて
山下広之


 去る2004年1月14日(水)に日帰りで長野県小諸市のシェイクスピア美術館を訪ねた。乗り物のキップはJRの青春18キップ。春、夏、冬の季節限定でJRが売り出すキップで、5枚1組で11,500円。このうち1枚(2,300円相当)で1日中どこまででもJRの各駅停車、快速電車に乗れる便利なものである。
 小諸のシェイクスピア美術館は西洋古典版画研究家の山中己充人先生と奥様の房枝氏が、小諸の町起こし振興のために市から請われて、まず英王宮の歴史美術館を小諸駅前の小諸グランドキャッスルホテルの2階に作り、続いて世界に類例の無いシェイクスピア美術館をこの小諸の地に立ち上げたものである。
 青春18キップを使って日帰りでこの両美術館を見学することにした。
 当日は朝早く千葉県我孫子市の自宅を出て常磐線に乗って上野・東京を経て高尾から中央線で甲府を経て小淵沢に出、ここから私にとって初めての小海線に乗った。瀟洒なディーゼル式車両は高原に大きなカーブを描いて目の前に聳える八ヶ岳に向かって上って行った。そして次第に雪の深さと銀色の輝きを増す積雪の中に、点々と広がる別荘地を進んで行く。耳がジーンと鳴り始めるので列車が高所に登って行くのがわかる。そして美しい佇まいの清里の駅や日本の駅で一番高い位置にある標高1345bの野辺山駅を過ぎる。「北国の春」の題材となった八千穂駅は日本画の奥村土牛美術記念館の看板も立っている。佐久平駅は長野新幹線と接続しているが広々とした畑の真中にある駅だ。中込駅は男声合唱団アンサンブル・レオーネで私が一緒に歌っているトップテナーの荻原儀重氏の生まれ故郷である。小海線の一番中心となっているように見える大きな駅だ。
 こうして小海線を楽しんで過ごして行くうちに小諸駅に昼過ぎに到着。駅構内のKIOSKが廃店になって半ば壊れた看板だけが残っているのはうら寂しい気分を起こさせる。
 昼食は駅前から一本入った通りにある大手町の食堂「揚羽屋」に入る。島崎藤村も良く味わったといわれる「一ぜんめし」を注文する。店は昔の雰囲気を残す古びた造りである。一ぜんめしは付き出しと揚げだし豆腐、豆腐の味噌汁、鯉のあらい、卵焼き、漬物、それにご飯がセットになっていてなかなか風情がある。島崎藤村が書いた「一ぜんめし 揚羽屋」の看板も大事に飾ってある。藤村の「千曲川のスケッチ」を見ると次の記述がある。

「私は外出した序に時々立寄って焚火にあてて貰う家がある。鹿島神社の横手に、一ぜんめし、御休処、揚羽屋とした看板の出してあるのがそれだ。
揚羽屋では豆腐を造るから、服装に関わず働く内儀さんがよく荷を担いで、襦袢の袖で顔の汗を拭き拭き町を売って歩く。朝晩の空に徹る声を聞くと、アア豆腐屋の内儀さんだと直に分る。自分の家でもこの女から油揚だの雁もどきだのを買う。近頃は子息も大きく成って、母親さんの代りに荷を担いで来て、ハチハイでも奴でもトントンとやるように成った。
蕎麦はもとより名物だ。酒盛の後の蕎麦振舞と言えば本式の馳走に成っている。それから、「お煮掛」と称えて、手製のうどんに野菜を入れて煮たのも、常食に用いられる。揚羽屋へ寄って、大鍋のかけてある炉辺に腰掛けて、煙の目にしみるような盛んな焚火にあたっていると、私はよく人々が土足のままでそこに集まりながら好物のうでだしうどんに温熱を取るのを見かける。」

この文章は一ぜんめしに添えてある箸袋の裏にも印刷してあった。
文学の世界に浸りつつお腹を満たして店を出た後、街道を雪で滑りながら歩いて蕎麦で現在有名な店「一休」の前を通り、旧本陣、旧脇本陣などを見学した。わけても旧脇本陣は荻原儀重氏の親戚に当たる家で、現在は高橋さんの表札が出ている。
こうしていよいよ懐古園の横に並ぶシェイクスピア美術館を訪ねた。島崎藤村の「惜別の歌」の碑と道路を隔てたところに美術館がある。そしてもう一つここから徒歩5分程で行ける小諸グランドキャッスルホテルの2階に英王宮の歴史美術館がある。まずここを見学した。それこそ王宮のようなホテルの豪華なロビーの階段を気取って上がって行くと、二階に美術館があり、ロケーションは絶好である。英王宮の七宮を描いた作品が展示されており入館料は大人千円。シェイクスピア美術館と両方を見ると割引の1,500円である。
展示されている7つの英王宮はバッキンガム宮殿をはじめウィンザー城、ケンジントン城などの英国の7つの宮殿のことである。このうちカールトン・ハウスはジョージ四世が購入して自分で改修した宮殿であったが、結局気に入らなくて壊してしまい現存しない王宮である。しかし健在な時の宮殿の外観や内部、居室などの様子を絵にして残してあるので現在でもその様子が分る歴史的資料でもある。また展示は館長で西洋古典版画研究家の山中己充人氏が一つ一つわかりやすく解説を書いて作品に添えてあり興味を持って楽しく観覧できる点が素晴らしい。
一方シェイクスピア美術館はシェイクスピアの戯曲を古典版画で見る美術館で、18世紀末当時の英国美術を代表する画家や版画家が優れた才能と情熱を結晶させて完成されたものである。美術品としても歴史的な資料としても貴重な100点の作品が展示されている。またシェイクスピア作品の名セリフや名場面を知っていても、私達は何となく「シェイクスピアは難しい」と敬して遠ざかっていた傾向があるが、この作品を見ることによって親しみが涌き、誤解が氷解するようになっている。
展示されている場面は例えば「ハムレット、第一幕四場」「ヴェニスの商人、第五幕一場」「ロミオとジュリエット第四幕五場」「オセロ、第二幕一場」「リア王、第一幕一場」「マクベス、第一幕三場」、その他シェイクスピア戯曲の殆どの名場面100点が分りやすい解説とともに展示されている誠に素晴らしい美術館であった。丁度在館された山中館長ご夫妻とも親しくお話しする機会も持つことができ、大変有意義なひと時を過ごすことができた。
帰りは再び小海線に乗って夕暮れ迫る浅間山の雄大な姿を見ながら信州の山々を抜けて小淵沢を経由し、甲府、大月を通り、その日の夜遅く帰宅することができた。小海線沿線の景色を見、小諸の歴史的遺跡と島崎藤村の文学の足跡を訪ね、シェイクスピアと英王宮の歴史などの西洋古典版画を鑑賞することが出来た有意義な一日であった。これがJR青春18キップを使うと往復2,300円の乗車賃で可能なのである。小諸は東京から決して遠くないことが分った。多くの方が小諸を訪ねて同じような体験をされることを望みたい。




執筆者の紹介

晴 一郎   我孫子市湖北台10丁目の清水正俊方の居候。「居候、川柳 だけはさっと出し」(晴一郎)。ロシア東欧貿易会には週2日勤務。


和田久實   英語試験対策専門塾リセEPL主宰。文京学院大学外国語学部・文京学院大学生涯学習センター・朝日カルチャーセンター講師。東京都世田谷区在住。
       E−mail wadahisamitsu@hotmail.com

大橋新也   寶莱徳洋行有限公司・香港風帆廠日本代表。文京学院大学生涯学習センター講師。東京都葛飾区在住。多彩な趣味で幅広く活躍。大橋新風の名前で川柳も発表。
E−mail zodiac9@poplar.ocn.ne.jp

仲津真治    取手男声合唱団所属、いばらき大使、元国土庁審議官。現(株)ゼンリン常務取締役。仕事の傍ら多くの勉強会や交流会、合唱、川柳などの文化活動に参画・主宰。在住地取手市の市民でまちづくりに取り組む取手フォーラムは、そのホームページが郵政大臣賞受賞。著書は「ハイブリッド国家日本の創造」(ヴォーゲル ハーバード大学教授との共著・平成9年刊)他多数。
nakatsu-masaharu@mbk.nifty.com
ホームページは、動画や写真のある楽しいものです。
川柳や短歌などで綴った物語や欧州旅日記が好評です。
是非ご覧頂き、皆さんもご参加下さい!
http://cocoroisan.com/users/nakatsum/

加藤良一   男声合唱団コール・グランツ所属。また埼玉の5つの男声合唱団から構成するYARO会の運営を世話している。合唱・文筆・随筆等多岐にわたり活躍。著書は「音楽は体力です」(文芸社、1048円)。
E−mail  rkato@max.hi-ho.ne.jp
ホームページURL  http://www.max.hi-ho.ne.jp/rkato/

川戸龍夫   男声合唱団マスキーレ・東京バッハ合唱団・コーラル・アーツ・ソサイアティ合唱団員。日本基督教団経堂北教会員。川崎市多摩区在住。
E−mail kawado@d8.dion.ne.jp 

山下広之   男声合唱団アンサンブル・レオーネ、東京バッハ合唱団、コーラル・アーツ・ソサイアティ、コール・アマフォーク合唱団員。我孫子市湖北台在住。文京学院大学生涯学習センター。   
E−mail yamashitah@dream.com

 寄稿をお待ちしています。

創造の白樺
  平成16年1月(新年号)
  通巻第12号
  編集・発行  山下広之
  〒270-1132
我孫子市湖北台2−7−25  tel/fax  04(7188)1673
  E-mail yamashitah@dream.com

 

 

 



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