アンサンブル・レオーネ/「創造の白樺」

 


 アンサンブル・レオーネの同人誌「創造の白樺」は、平成14年4月に創刊号を刊行しました。

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   「創造の白樺」第11号(平成15年11月、晩秋号) 

   「創造の白樺」第10号(平成15年11月、秋号)

   「創造の白樺」第9号(平成15年8月、夏号)

   「創造の白樺」第8号(平成15年6月、初夏号)

  

創造の白樺



 平成十六年一月(第12号)

                                       目      次

                    1.俳  句(私の1年  −2003年―)        今井岩夫                
                              
                    2.夢のある国、夢のない国               和田久實   

                    3.貿易人としての適、不適について          大橋新也

                    4.北海道開拓の記録(1)
                      祖父 川戸清人の山口から北海道への開拓   川戸龍夫   

                    5.コーラル・アーツ・ソサイアティ第4回ドイツ演奏旅行記(2)
                                                    山下広之   

                    6.執筆者の紹介                             

俳 句    私の一年   ―2003年―        
  

                 今井岩夫
 

    1月 (誕生日は厳寒期)
       寒厳し 六十七の 健やかに

       (社会教育委員として成人式に招かる)
       ネクタイの 結び目緩し 新成人

    2月 (利根川リバーサイドマラソンに参加)
       早春の 北総台地 ひた走る

        (男声合唱団アンサンブル・レオーネ創立25周年)
       春浅し 舞台に和声 響きけり

    3月 (婚期を逃した娘に)
       縁遠き 娘に雛 飾りけり

       (初めてのヨーロッパ旅行)
       ローレライの 岩見て春の 舟下り
       見上ぐるや 古城は春の 天を衝く

    4月 (体調不調のまま結婚40年)
      春愁の 身をもてあまし ひとり酌む
      祝飯も 春の憂いか 色薄し

     5月 (走友会のハイキングで山梨県滝子山へ)
       熊除けの 鈴の音涼し 山歩き

     6月 (朝のウォーキング日常化)
        日に万歩 今朝も沼辺の 青葉道

        (田舎より新じゃが届く)
        荷を解くや 新じゃが1つ 転げ出る

     7月 (梅雨長びく)
        沼跨ぐ 大橋梅雨の 明けきらず
        梅雨明けや 縁談二つ 舞い込みぬ

     8月 (北海道旅行)
        水澄むや 阿寒の湖の 朝静か
        北の旅 富良野は秋の 花盛り

     9月 (我孫子走友会創立25年)
        下総に 四半世紀や 沼の秋

        (沼向こうの梨園で)
        梨を売る 主の顔は 梨のごと

    10月 (白井梨マラソン大会参加)
        ゴールして 双手で梨に かぶりつく

       (米不作)
        左肩 少し落として 案山子立つ

        (千葉市浜野に古き友人を訪ねて)
        木の実落つ 古墳巡りて 小半日

    11月 (娘の結婚決まる)
        婚決まる 娘の笑顔 菊香る

       (甥の結婚式に参列)
        結ばれて 両家の握手 冬ぬくし

       (高貴な人と同病の疑い)
        前立腺 診らる冷たき 医師の指

    12月 (喪中欠礼のハガキしきり)
        年惜しむ 喪中のハガキ 今日もまた

        (65歳以上の陶芸教室に参加)
        造型の 粘土冷たき 初体験



夢のある国、夢のない国

           和田久實


 司馬遼太郎さんは、『この国のかたち』という著作のタイトルにも見られるように日本を「この国」と表現する癖があった。歴史小説家である氏が、日本の社会や文化を歴史的な視点から考察するために、いわば一歩身を引いて、距離を置いたかたちで自分の国を「この国」と呼ぶことはいっこうにさしつかえない。
しかし、「わが国をどうすべきか」という問題を考え、大衆に訴えるべき立場のニュース・キャスターや、まして具体的施策を立てて実行してゆくべき政治家のような「当事者」たちが、平気で「この国は」を連発しているのを聞いていると、のように自分の祖国のことを論じている気がして、なんとも言えずいやな気分になる。

 ――それはともかく、わが国の元気のなさである。
 いや、元気がないどころの話ではない。危機的な状況といってよいのではないか。たとえば、新聞やテレビでは一切報道しなくなったが、毎年三万人余り、ということは、毎日毎日八十人余りの人が自殺しているのである。
「くさいものにはふたをして」「見たくない現実からは目をそらして」という日本人の体質に迎合するかのようにメディアは報道しなくても、「ご迷惑をおかけ致しております。人身事故の関係でダイヤが乱れております」という駅の放送を聞きながら、みんな「またか」とうんざりし、暗い気分になっているのである。
曽野綾子さんは「こんな事態が十年続けば、すなわち国民が三十万人も死ぬなら、それは内戦が起きているのと同じこと」だと指摘されていたが、同じ国民が国を二つに分けて命のやり取りをしているほどの危機的状況の只中で私たちは暮らしているのである。
いったい、この地上のどこに、こんな生活苦で自殺者続出などという「先進国」があろうか?
 ここで私はジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」という書物を思い出す。千九百三十年代にアメリカに移民してきた貧しい白人一家 (poor white) の結局報われることのなかった苦闘を描いたこの小説のタイトルはギリシャ神話に由来する。すなわち、「神が本気で怒った」ときの状態を「怒りの葡萄」(The Grapes of Wrath) というのだが、「約束の地」アメリカでこんな悲惨なことが許されるのか、という怒りをスタインベックは書名にしたわけである。スタインベック同様この私も、今のわが国の状況には、神も怒髪、天を衝いているのではないかと思うのである。
 二年ほど前に、電車の中で若者が些細な口論の挙句、中年のオヤジを殴り殺した事件が多発したとき私は「これは日本社会の歴史的なターニング・ポイント(転換点)になるのでは」と恐れたのだが、マスコミのキャンペーンが功を奏したのか、本来の日本人の穏やかさが回復したのか、さいわい「暴力がする社会」へと一直線には進まずにすんだ。
しかし、電車の中でおにぎりを食べたり、化粧したり、煙草を吸いながら混雑した街中を歩いたり、背広を着た一応はまともな社会人らしいオヤジが駅のごみ箱で週刊誌を拾っていたりと、「恥の感覚」を失ったとしか思えない言動が目につく社会になってしまったのは確かである。

しかし、怒ってばかりいても始まらない。
私なりに今日のわが国の、元気のなさ、自信のなさ、夢のなさの原因を考えてきたのだが、「これが一番の原因ではないか」と思い至ったことがある。そういうわけで、この随筆を書き始めたのだが、その原因とは「物価が高すぎる」ことだと私は思う。
え? このデフレ基調のご時世に何を言ってるの?
とバカにされそうだが、ちょっと待ってほしい。私の言いたいのは、「ハンバーガーなんか信じられない値段だし、日用雑貨ならたいてい百円ショップで間に合うよね。ほんと、デフレだよ」とみなさんおっしゃっているが、果たして本当にそれほど暮らしが楽になりそうなのか? という疑問なのである。
インフレがいいのか、デフレがいいのかという議論を展開したいのではない。そうではなくて、「物価が下がっても、みなさんの給料が急激に下がっているわけではない。それなのに暮らしが楽になったという実感が湧いてこないのはなぜでしょう。そこのところをまじめに考えようじゃありませんか」という議論をしたいのである。
ぐだぐだ話を進める気はない。私なりの結論は「生活してゆく上で、なくてはならないものの値段が高すぎる」という一点に尽きる。
たとえば電話代。三分間十円として、二十四時間インターネットに接続していたら、月額十四万四千円になる。そんな電話の使い方をしている人なんかいるわけないじゃないか、とあなたは言うかもしれない。しかし、アメリカではそんな人はざらにいる。なぜなら電話代が約千四百円しかかからないからだ。
次に交通費。これまたべらぼうだ。私は週に三回、大学などの授業に出かけるだけだが、それでも五千円の「パスネット」があっという間になくなるというのが実感だ。ロンドンの地下鉄は異常なほど高い(東京並み)が、同じ「先進国」でもパリやニューヨークやフランクフルトならどこまで行っても百五十円くらいである。
もっと具体的に考えてみよう。どんな貧乏学生だって授業に出なければならぬ。たとえば、私の住んでいる下北沢から、小田急線と地下鉄で表参道にある大学に通う学生さんの場合(こんな通学距離はきわめて近い例である。なにしろ所要時間は乗換えを含めて二十分程度)、それでも月に二十五日として一万四千五百円かかる勘定になる。学割定期で六割ほどになるのだが、それでもこの九千円という金額が、平均十一万円という自宅外学生の月々の仕送りの中で、どれほどの重さを占めるかは言うまでもない。おまけにこの学生の親御さんは(私立大学の場合)年間百万円前後の学費を別に送金しているのである。
これ以上具体例を挙げるのはやめるが、他の先進国に比して、郵便料金も、電気・ガス・水道代も高いし、食料品も高い。これは厳然たる事実である。
たしかに「ユニクロに行っても特に安いとは思わない。だって、同じような品をもっと安く売る店がどんどん出てきているんだもの」という指摘は正しい。実際、衣料品などは中国や韓国で生産した商品の逆輸入で目に見えて安くなってきている。
しかし、「基本的生活必要品」とでもいうべき電話代、交通費、光熱費、郵便料金、そして食料品が海外先進諸国に比べて異常なまでに高い事実を考えるならば、「デフレだもんね」と楽観しているわけには行かないのである。
では、どうやったらこうした「基本的生活必要品」の値段を下げることが可能なのか? と考えたとき、恐ろしい事実に気がつくのである。すなわち、食料品以外のこうした料金は、いわゆる「公共料金」と呼ばれ、「お上」が決める仕組みになっているという事実である。

さて、それではなぜ「基本的生活必要品が高いことが今の日本の元気のなさにつながっているのか」という私の主張に話を進めたい。
結論から言わせてもらえば、「敗者復活が不可能だから」ということである。
たとえばここに、四十歳の平均的サラリーマンがいるとしよう。専業主婦の妻と、小学生の子どもが二人いる。ある上場会社に勤めている彼の月給は手取り四十万円強。ボーナスは年間約二百万円、したがって年収は税込みで八百万円といったところ。だが、分譲マンションのローンやら、子どもの塾費用やらで、毎月の生活にとても余裕はない。
しかし、そうはいっても彼の日常は安定している。今の職場が安泰で、そこそこ昇進昇給が当てにできるならば、子どもたちを大学にやり、住宅ローンを完済して定年を迎えられるであろう。退職金で、いくばくかのまとまった老後資金も残る勘定である。
だがしかし、もし彼が「リストラ」にでもなればいったいどうなるか? ここで「基本的生活必要品の高さ」が牙をむいてくる。どんなに毎月の生活費を抑えようとしてもできないからだ。つまり、再起不能である。
挙句、家族に対する責任感の強い人、あるいは「俺は会社辞めさせられたから、おまえ達は中学出たら働いてくれ」と子どもたちに宣言できない気の弱い人は、走ってくる電車に向かって線路に飛び込む道を選んだりするわけだ。
もしこれが、月十万円もあればなんとか暮らしが維持できるのであれば、奥さんと二人でパートでもしながら次の仕事を探すこともできるのだが、そうはいかない。なにしろ職探しに歩き回る交通費だけでも重い負担なのだから。
そういう「一枚下は地獄」という船乗りの言葉のような怖さを秘めてみんなが仕事をしているわけだから、「リストラされないように」という姿勢になる。
どこの職場でも、人間が仕事をしている限りミスは出る。いや、積極的に仕事をする場合には失敗はつきものだ。けれど、リストラされては大変というわけで、ことなかれ主義の、消極的な働きぶりが蔓延し、ひどい場合にはミスの責任を同僚に押し付けたりする。
こんなことで会社の業績が上がるわけがない。業績が上がらないから、会社は人件費削減つまりリストラに走るという悪循環だ。まるで飢えた蛸が自分の足を食っているようなものである。
暗い話になってしまったが、そんなわけだから、わが国が夢を持てない国になってしまった最大の原因は「基本的生活必要品の法外な高さ」だと思うのである。



「貿易人としての適、不適について。」

              大橋新也 

はじめに

 国際貿易に活躍する人達の仕事に対する考え方には、一つの共通点があり、その共通点を日々の生活の中に着実に実行に移している人達を、「貿易人」と称して、日本人、アメリカ人、英国人、インド人、華僑などの区別は全くない。但し、イスラム系が少しく異なる。

 本書を通して、読者の皆様が、それぞれご自分の性格、習性に照らし合わせて、ご自分が「貿易業務」に適、不適であるかを自己採点して戴けることを願うものであります。
また、これから「貿易」に携わりたいと欲して居られる方々のために、本書が少しでもお役に立てれば幸せです。

本文

どなたでも、判り易い様に、これから、四者択一方式に準えて、お話し致しましょう。

第一問、外出から戻ったら、
1) 直ぐにe−mailを開いてみる。     
2) 一休みしてからe−mailを開く。     
3) 疲れたから明日e−mailを開く。     
4) 二、三日経って、ゆっくり纏めてe−mailを開く。

答)貿易人として、適格なのは、1)に該当するお方です。(今は、e−mailの時代ですが、その昔は、航空便の時代でした。こと貿易に携わっている人達は、外出から戻ったならば、先ず最初に郵便受けに手を突っ込んで、郵便物の中から、航空便を第一に選び出し、場合によっては、事務室に向かう廊下の途中であっても、歩きながら封を開いて、手紙を読みます。

第二問、顧客または仕入先から、e−mailを受信したら、
1) すぐに折り返し返事をする。
2) その日の内に必ず返事をする。
適格な返事ができない時は、取り敢えず、受信した旨を通知し、内容に応える為に
幾日かの余裕を願うことを認める。
3) 翌日返事を発信する。
4) よく考えて、返事の内容が確定するまで、何も返事はしない。

答)1)及び2)に該当するお方は、適格です。
商取引と言うものは、先にお手つきをしたものが勝ちなのです。要は、相互の信頼関係こそが永く取引関係を維持することができるわけです。後手にまわると、どうしても、
信頼回復や維持のために、余計な心配や苦労をしなければならないのです。

何も、e−mailでの交流に限らず、取引の原点である。「対面接客」の場合でも、例えば、アメリカの超一流の小売店に行ってごらんなさい。お客が「ちょっと見せてください」と一声挨拶して、店に入ると、複数の売り子の一人が、つかつかっと、お客に近寄り、「どうぞ、ごゆっくりご覧下さい。」と言って、自分の名刺を差し出す。そして「何かご希望のものが見つかりました時は、私〇〇〇〇と申しますので、私をお呼びください。」と言ってすーっと引っ込んでしまう。それで、お客は、ゆっくりと品定めをして、これに決めた。と思うと、さっきの〇〇〇〇さんを呼びに奥に行く。決して、日本の百貨店の様に売り子がお客の傍にぴったりと付き添わない。要するに、売り子達は、仲間同士でお客の取りっこは決してしない。非常に雅な売り方が、店の品格を益々高めてゆくのです。

第三問、e−mailの受信時に留守の場合。
1) 信頼のおける秘書または、部下にメールを開かせて、必要に応じて、出張先にメールを転送させて、内容を把握する。その場合、秘書または部下は、「只今bossは、出張中で、〇月〇日に帰る予定故、返事は、その時までお待ち願いたい」とメールの発信元に返事をする。もしも、急を要する場合は、出張先から、発信元に返事を認める。
2) コンピューターの自動返信機能が備えてあれば、予めそれを用いて、定型のメッセージを送り。帰ってから至急返事を認める。
3) 戻るまでメールは開かないし、勿論、秘書にも部下にも開かせない。
4) 長期出張の場合は、予めhotmailなどに自分のドメインを設定し、そのアドレスをコンスタント・カストマーに通知して、
出張中は、c/cに、そのaddressを用いてメールを送って貰う様に依頼する。
急ぎ返事をする必要があれば、出張先から返事を送る。

答)3)を選んだ人は、部下を信用していないし、部下もまた、社長を信用していない。
  これでは、人を動かすこともできず、勿論顧客からの信頼も薄い。
1) を選んだ人は、成功するタイプ。
2) を選んだ人は、一見して実直なマネジャーに見えるが、本心は、かなりずるい。
仕事よりも、自分の私生活を第一に考える。
4)を選んだ人は、一匹狼的な素質がある。この人の真似は出来にくい。
第四問、ホームページ(URL)にした会社案内又は製品カタログの有無。
1) ある。
2) ない。
3) これから 作る計画。
4) 当分は作らない。

答)その昔は、大なり小なり、自分の会社案内は勿論のこと、取扱い製品がラインアップされたカタログを用意していなければ、顧客の獲得は難しかった。その都度、現物見本を
提出していたのであれば、見本代で経費倒れになりかねない。だが、現実には、半世紀前までの貿易商は、挙って現物見本を顧客に毎年定期的に送って注文を促していた。また、カタログからピックアップされて、商談が開始された場合でも、契約時には、Actual sampleの提示が必須条件となっていた。もしも、sampleに不具合が発見されれば、契約は中断され、満足の行くまで、Actual sampleの提示が求められる。

昨今は、e−mailを用いれば、カラーコピーも、いとも簡単に相手に送付できる。
faxなんか、影が薄くなってきた。

そこで、どうしてもURL addressを所持しなければならない。URL即ち
Uniform Rescource Locatorの略称であるが、インターネット上の情報のある場所を表す言葉で、ホームページのアドレスのことだ。

URLの仕組みは、例えば、http://www3.ocn.ne.jp/~ohashi/ の場合、
(ア) http://は、「プロトコール名」と言って、www3サーバーとやりとりをする時の決まりごと。
(イ) www3は、「サブドメイン名」と言って、www3サーバーにデータが置かれている。
(ウ) ocn.ne.jpは、「ドメイン名」で、OCNと言うプロバイダーのこと。
(エ) 「ドメイン名」のうち、neは、組織種別コード。
jpは、国別コード。
ホ)〜ohashi/は、オオハシが作ったホームページ。

そこで、設問のうち1)を選んだお方は、まずまず優等生。3)を選んだお方は、早急に実践に移すこと。4)を選んだお方は、貿易人はもとより、商人としては不向きだと考えられる。2)を選んだお方は、もしも、今後世界に向かって羽ばたきたいのならば、先ず個人のプロフィールだけでも、ネット上に公開することをお薦めしたい。
第五問、カタログについてのメディア。
1) 今後も印刷物にしたい。
2) CDにして配布したい。
3) 仕入先のカタログ又はCDで代行させる。
4) 仕入先のCDのコンテンツをも取り入れて、編集、自社のPR用CDを作成。

答)1)を選んだお方は、一枚刷りの簡単なものを用意して、総合カタログはCDにするべき。
2)を選んだお方は、先ず先ずの線上にある。
3) を選んだお方は、自主性を失ってしまう傾向にある。
4) を選んだお方は、他社との共存共栄を意とする温厚路線を行く傾向。

第六問、ある程度財源に余裕ができてきた場合。会社のプロモーションビデオを作成する。
1) 既にあるが、内容を更新したい。
2) 是非作りたい。勿論DVDで。
3) 作る計画はない。
4) たとえ作っても、無駄だと思う。

答)3)を選んだお方は、常時積極性に欠けている。
1) を選んだお方は、是非、更新に踏み切ることをお薦めする。
2) を選んだお方は、もうVTRの時代は過ぎ去ったので、早急にDVDで作るべき。
4)を選んだお方には、せめて、ホームページの上ででも、簡単なプロモーションを掲げることをお薦めしたい。

第七問、商品に対する考え方。
1) 製品そのものだけが、商品だと考える。
2) 梱包も商品の一部だと考え、梱包の強度に留意する。
3) 梱包された商品の落下テストを必要だと考える。
4) 自分では納得が行かなくても、お客がこれで良いと言ったら、売る。

答)1)を選んだお方は、普通の人。
  2)を選んだお方は、誠実な人。
3)を選んだお方は、誠心誠意仕事に打ち込む真面目な人。
4)を選んだお方は  柔軟に物事に対応できる人。
もしも、絶対に、自分が納得したものでなければ売らないと言う人は、商人では
なくエンジニアだ。昔から、「商人は、女に惚れても品物に惚れるな」と言われて
いる通り、自分の品物にこだわっていると、どんどん商機を逸してしまう。

第八問、商品の入出庫及び経理事務について。(但し、小規模企業の場合)

1) 特別に専門職を雇うことに必要なしと考える。但し、金庫番は、信頼のおける人物を
一人雇うことに吝かではない。
2) 財務・経理事務に当たっては、各専門職を雇はづに、コンピューターにやらせる。
(記帳に当たっては、各勘定科目の属性を管理者が把握していれば、先ず間違いはない。)
3) 商品の入出庫には、若干の専門管理職を必要とする。
(入出庫管理は総てコンピューターによって指揮されている。)
4) 国内運送・納品に関しては、信頼度の高い外部の「納品代行業者」に委ねる。但し、特別な顧客の場合は、可能な限り、自社の正社員を添乗させる。
海外への輸送は、世界的に信頼度の高い、運送メディアに任せる。勿論、乙仲も倉庫会社も同様。

答)以上 1)〜4)まで、総てが必須条件であり、否定条件はない。

第九問、クレームに関する対応。
1) 譬え営業時間外であっても、責任者は、即刻対応開始。
2) 営業時間内でのみ対応。
3) 早期解決には、若干言い分があっても、いち早く謝り、善処する。
4) クレーム処理完了後、遅滞なく、改めて、応分の礼をもって挨拶をする。

答)2)を選んだお方は、損害を大きくしてしまう。 1),3)& 4)は、絶対に実践する必要がある。裁判にまで持って行くことは、極力控えるべき。
1) を選べは、必然的に、3)と4)の手順へと繋がって行く。
但し、4)を省略すると、後々、取引が細くなって行く可能性が高い。

あとがき
第一問から九問まで、ご覧になって、それぞれご自分の意に問いながら、ご自分が「貿易人」として相応しいか否かをご判断いただけたことと思います。貿易は、世界の国々の情勢に常に左右されがちです。 従って、自分の力量以上を夢見ることは自由ですが、実際には、脚下照覧、自分の力量の中で、事業を徐々に進め、市場を開拓することが安全であると信じます。
以上                             (不許複製)


北海道開拓の記録(1)
   祖父 川戸清人の山口から北海道への開拓
川戸龍夫
川戸家の北海道移民したときの資料
2001年8月、岩見沢市市史資料室を訪れた時に入手した資料
〔岩見沢への士族移住・その理由と経路〕から
(岩国出身士族子孫中嶋敏夫氏の提供)・明治18年(1885年)7月10日 
客船明治丸に乗船し、徳山市新滝口を出港。
・ 7月13日 瀬戸内海を経・7月16日 戸主一行は東京駿河台の吉川候(岩国藩主吉川広家)に挨拶、お言葉と金一封を賜る。同日午後12時貨物船住之江丸に乗船、横浜港を出て石巻港・函館港に寄港し、20日小樽に上陸。越中屋旅館に投宿。
・7月21日 石炭車(義経号)に乗り、小樽駅発午後4時ごろ岩見沢駅に到着した。(中嶋敏夫氏は91歳で健在、岩国出身士族中嶋武平の三代目。)
〔岩見沢郷土誌〕から 
 移住の話 川戸清人談  
明治18年7月21日、山口県岩国港を出帆して12日掛かって小樽に上陸した。
七屯車の無蓋貨車に乗り、岩見沢まで8時間余りかかって来た。
機関車は義経号といい、この他、比羅夫号というのもあった。当時の駅は今の元町の辺にあり、六畳敷き一間だけで、机の上で切符を売り、毎年11月末から翌年4月までは、雪のため鉄道は不通であった。その頃はこの辺りが街といはれる所であったが、駅の付近も森林があった。着いたのは夕方であったが、迎えの者がいない。ぞうりをはいては歩けないのではだしで歩いた。給与される予定の小屋はまだできていず、多くの人はテントに入った。(現在の四条西十二)
入地したものの、朝は十時頃までは濃霧、晴れてから外へ出る。昼なお暗い径四〜五尺位のタモの木の密林、ラッパ草とかいう九尺から一丈位の雑草、十間も入ると方向を見失い裏に行くこともできぬ。
熊がいてその遠吠えは何ともいえずいやなものであった。熊がテントの中へ顔を突っ込んで味噌をなめたという話しもあった。
貸下げ地は五千坪、第一の仕事は伐木だが、五十間に百間の私の土地内に、東から西に十三本もの川があった。道路といっても木が伐ってあるだけ一条と四条(札幌通り)に大きな道路があったが、まだ木の株があった。そんなぐあいなので馬車が心棒までぬかることもしばしばあった。その後中央通と十丁目に南北に九尺幅深さ四尺の大排水溝を利根別川へ掘りぬいてから、乾くようになった。
来た年は大根とそばを植えた。初め一、二年は肥料なしで作物ができた。馬鈴薯は四、五十俵とれたし、小豆は五、六尺にも成長した。家は掘っ立て小屋で、私どもの時から土台のついたのができた。とど松の板で節だらけで外が見える。畳はなし、むしろの上にうすべりをしいて暮らした。焚き火で明かりをとったが、半年ほどしてカンテラが配給になった。燃料に不足はなかった。
そんな中で唯一の楽しみとして小説を読んだ。移住者の中に教師をした人があってそこに学問を習いに行った。(移住当時川戸氏十三歳。細川知定氏長男定氏であろう。郷里で高等科を出た。)のち元町に蛍雪学舎ができた。私が郷里にいたころ四年ばかり学校に通ったので先生の代理をさせられた。生徒は三、四十人いたが、冬になると寒いので、喧嘩をするか女の子をいじめることばかりやっていた。
移住者の大部分は、かつては両刀を腰にした武士で、開墾作業のつらさは想像にあまるものがあった。時刻に応じて割り当てられた日課を告げる鐘の音を千万無量に、悲壮な思いで暮らした。鐘は元町にあった勧業課派出所でならした。
樺戸町役場には開拓使勧業課の出張所があり、官員様は農耕だけではなく、保護を受ける移住民の行動一切を取り締まる昔の目付役のようなもので、一般から恐れられており、山高帽子のフロックコート、片手にはステッキといういかめしい方であった。
灯 火
火を得るためにはマッチがつけ木として使われ、まれには火打石も使われた。照明の役をしたのはブリキ製のカンテラ(ことぼし)を一箇所につけて、あらゆる用を足し多くは焚火のあかりで夜を暮らした。しかしこれらは裸火のため危険でもあるので、これに代わってランプが少しずつ入ってくるようになった。
夜の外出の時には、提灯などはめったに使わず、火に燃えている木を一本手にして歩いたりした。これはふり火といわれて、有効に使われた。熊の横行が予想されていることと、熊は火を嫌うという考えもあるし、又油の節約ということもあったのである。
ランプが入ってからは家の中は明るく結構になってきたが、冬の寒い日など家の設備も完全でなかったので、石油が凍ってランプが消えたりしたこともあった。こんな日、家では灯火を中心にすることを忘れなかったし、暖を楽しくとったのである。それで子供たちの遊びも灯をはなれて全く存在しなかった。
履 物
先に下駄が用いられ、ついでわらじ、わらぞうり、ひっかけといったものが用いられた。冬は秋田地方で雪ぐつといはれるものが、深ぐつといって履かれ愛用されたことは、なかなかのものであった。
また雪の中を歩く時には、カンジキが使用された。

娯 楽
お盆や正月に街へ芝居を見に行ったくらいのもので、それが唯一の楽しみであった。雨の日や秋の収穫の終わったころになると、夜若衆の家へ多くのものが集まって、大根と一緒に人参、油あげ、ごぼうを煮て夜食を楽しんだ。
物 価
明治18年移住したときは、三百三十円を二ヵ年間の生活費として貸与されることになっていた。当時馬一頭が四、五円から十円も出すとたいした立派なものが買えた。米一升が四銭位であった。
駅が現在の場所に移転したのは明治25年、その時の出面賃(1日の日当)は米一升に金十銭でみな喜んで行った。
明治30年前後の物価
  白米 一俵  七円三十銭    大豆 一升  五銭
  酒  一升  十三銭      そば 一俵  四円
  玉子 一個  一銭六厘     馬鈴薯1俵  八十銭
  石油 一升  十六銭
                              以上

〔北海道移民 平郡島から岩見沢への場合〕から
2002年4月24日平郡島を訪れたときに、民宿の大野屋の近くに居る老婦人が届けてくれた小冊子 (島の高校教師、松島幸夫氏が編集した)から抜粋する。
・平郡の人々が士族として認められた経緯
弘治元年(1555年)毛利元就は陶晴賢の大軍を厳島の合戦において滅ぼした。その時、平郡島西浦に砦(平見城)を構えていた水軍、浅海氏は他の屋代島衆と共に毛利・陶のどちらにも組みせず傍観の姿勢をとった。
この時、平郡東浦の鈴木左近介は浦人約100人を伴って馳せ参じ、暴風雨の中、毛利軍を首尾よく厳島に輸送し、陶陣急襲に大きな功績を果たした。この戦功によって平郡島は貢租免除の特権を与えられた。また同時に平郡島での権勢の座が西の浅見氏がら東の鈴木氏にとって替わることになった。
毛利氏の萩移封後、平郡島民は厳島の戦役の功をかわれ、可子(船の清掃や薪くべなどをする水夫)として三田尻(防府)の御船蔵に交替で出勤することになった。可子の対象は島民すべてであり、三田尻づめの人数は125人にもなった。
やがて幕末。四境戦争(長州征伐)にあたり、平郡島から100名の義勇兵を三田尻海軍局へ出頭するよう命が下った。本島の義勇兵は中の関の見張り、軍艦乗船などの任務についた。藩はその忠勤に対し鈴木、浅海、伊藤、原田の四氏は士族外交役とし、382戸を三田尻海軍局の支配下に置くことにした。旧幕府勢力を一掃し終えた明治3年、可子一同が卒族(下級武士)として認められて山口軍務局の直轄となった。さらに翌4年には、皇族・華族・士族・平民の身分を新設したことによって、卒族は廃止され、士族に編入されることになった。

・ 新天地岩見沢へ
平郡島から明治17年に23戸、翌18年に6戸の者が岩見沢に移住した。どのような経路で岩見沢に行ったのであろうか。明治18年7月5日付けで入植の場合を見てみると。
山口県の出身者は徳山の近傍に新しくつくられた滝口という港に集合し、そこで明治丸に乗船した。客船明治丸は美しく畳敷きであったので乗り心地はよかったが、故郷をあとにする淋しさで、涙を流しながらの旅であったという。途中、嵐にもあったが無事横浜に着いた。そこから東京に出向き旧藩主に伺候して、激励の言葉を賜った。3日後、貨物船・住の江丸に乗り横浜港を出港したが、波にもまれて食事をとることも難しく、激しいローリングによって棚から落ちるものもあり、難儀を極めた。そして小樽に着いたのは、徳山を出て12日目であった。
一行は小樽の越中屋旅館に投宿し、入植区画の割当て抽選を行った。小樽の町は意外に立派であったので、北海道に来たことを皆喜んだという。その喜びもつかの間・・・・小樽からは汽車・義経号に乗せられたが、無蓋の石炭貨車であった。石炭同様の扱いによる不満と、初めての乗車というもの珍しさの入り混じった複雑な気持ちで揺られてきたが、札幌付近から雨となり、傘をさしての岩見沢着となった。岩見沢仮停車場の周囲はすべて鬱蒼たる森林。出迎えの者に導かれ雑木と草のトンネルをくぐり、昼なお暗き密林の中へ入植していったのである。
・平郡島出身者の模範的開拓
当時は現在のようにTVがあるわけではなく情報にうとかったため、よそ者に対しては排他的観念が強かった。したがって入植後しばらくたっても、出身地ごとに行動する傾向が強かった。とくに山口県と鳥取県の両者は反目しあうことが多かった。山口県出身者は盆踊りに長州音頭を、鳥取県は因旛踊りを別々に行っていた。また山口神社・鳥取神社を建立し、別々に祭礼を行っていた。かといって山口県出身者皆が団結していたわけではなく、中では萩・岩国・平郡それぞれがグループ意識を持っていた。同郷のものたちは共通の生活習慣をもち、知恵を交換しあい、励ましあっていたから、働きぶりや開墾の進み具合にも出身地ごとの傾向があらはれてきた。
とくに平郡島の場合、他の出身グループと違い純然たる武士ではなかったから、きわだった特徴をみせた。明治18年12月の札幌県報に出身地ごとの働きぶりや開墾の進展状況が載せられている。
平郡島のところを引用する。
「十七年八月二十五日周防匡大嶋郡より移住せる二十七戸、従来農業に慣熟しその志操着実にして能課業に従事するを以って、既に開根せん木などの占せる所となる故に、ここに掲ぐる者はこれらを除き、播種し得べき懇成地のみを掲げる。云々・・・・・後半は現代文にすると:その土地は一戸平均で七反二畝歩である。そして当初割当てになった五千坪を開墾したものは十戸あり、この人たちは他の移住者と比較すると良く働いた上、余裕の無いなかで常に質素倹約を守ったからである。ことに本年は、大小麦他雑穀などの収穫が良かったので生計上余裕ができた。故に今後益々勤倹貯蓄に注意し増産に励み、勤勉を怠らなければその目的を達することは困難ではない。」
このように平郡の人たちの勤勉ぶりと、良好な開墾成績を褒め称えている。それに対して岩国・萩の評価は手厳しい。
岩国については「同船にて同国玖珂町より移住せる者六戸あり、身体極めて軟弱にして其の労働遠く前移住地(平郡のこと)に及ばず。開墾反別の如きも二町八反六畝歩、即ち一戸平均四反七畝歩余に過ぎざるなり。」・・・原文のまま              
〔祖父の歩んだ明治〕
(父清人が孫の多田慶三に語り残した開拓当時の様子を、1971年に多田慶三が小冊子にまとめた。手元に保存してあったのでここに再録する。当時慶三氏は結核で長期療養のため国立久里浜病院に入院していたときに書いたもの。
彼は1991年6月30日70歳で死去した)                                   

第1章 明治維新と武士の廃業
現代に生きる私達には明治という時代は想像もできない遠いことのようです。幸いにして私自身、明治の苦難な生涯を生きた祖父より種々の事柄を聞いていますので記憶を呼び起こしつつ、その片鱗を述べさせて頂きます。
祖父の生まれたのは周防の国、現在の山口県、岩国というところで景勝の地、錦帯橋(左甚五郎の作)のある近くです。江戸末期の岩国藩は吉川元春という殿様のもとに静かな城下町でした。祖父の父は藩士として、お城勤めをしていて名を匡行といいました。
やがてこの眠ったような太平な城下町にも時代の波が押し寄せてきました。
それは明治という大変革の時代でした。その口火は言わずと知れた、ペルリ
提督の來日でした。久里浜にペルリが来たのです。そのときの幕府の狼狽振りは非常のことであったようです。早速ペルリの上陸を迎えることになり、久里浜では幕府の各藩より選ばれた武士が警戒にあたりました。藩の中には毛利藩とか、合津藩、岩国藩が当たり、和戦両様の構えでペルリを迎えました。岩国藩はもっぱら接待役にあたったようです。祖父が持っていたその時の藩の記録文書を読んでみますと、会見が終わると直ちにご馳走を出したようです。その献立は純日本式の会席料理で、品目は刺身・魚の蒸し焼き・椎茸、筍、人参、こんにゃく、等の旨煮・ご飯・日本酒等など相当賑やかなものであったとあります。
記録には細々とした材料や費用、食器の種類まで詳細を極めています。食卓を前にしてペルリさんは目を丸くして、食べたことの無いご馳走を食べたことと思います。ともかく会見は成功したのです。日米修交はペルリさんとの和やかな食卓会談で始まったのです。その時の情景は時々笑いを込めて進んだと思います。接待費も惜しげなく使ったようです。
しかし幕府は上下ともに大きな暗黒時代を迎えます。大政奉還につぐ幕府の崩壊です。上は将軍から下は一足軽まで一挙にして職を失い、武士という名誉は剥奪され、一族郎党はその日の食にも困るとゆう悲惨なことになったのです。
現在でいえば会社が倒産して何の保障も無く、街におっぽり出されたようなものです。ご多分にもれず祖父の一族も失業した士族となりました。十五人くらいの家族構成なので困窮はその極に達しました。それでも近在の農民が米を恵んでくれたので、お粥にして食したとあります。このような状態は各藩でも同じでした。時の明治政府はこの武士団にたいして相当心配したようです。時の太政官黒田清隆が、この飢えた武士団を救済しないとどんな暴動が起きるか知れない、といった難しい時代であったのです。今から考えるとその時の日本は、大革命の時代だったのです。華やかな明治の幕明けの陰には飢えに泣いた人々と武士も民衆も含めての暗黒時代でした。清隆はこのとき北海道の土地に注目したのです。
明治政府は太政官布告で士族救済事業として、士族の北海道移住を決めました。祖父の一家は割合と進歩的であったようで、早速その応募に乗ることにしました。明治政府は武士団より先ず食禄を取り上げ、刀とチョンマゲを取り上げたわけですが、大切な生活の場を与えてくれました。それが北海道の土地であったのです。移住の条件は人跡未踏の不毛の地なのでとりあえずの住宅と、食料は米一人当たり一日三合、味噌醤油、塩などと当座の費用の最低限のお金という具合でした。祖父一家は親族会議を開いて一同北海道移住を決意しました。明治十三年夏、準備ができ出発ということになったのです。(前記の記録では、明治18年7月21日に船便で渡航したことになっているので5年の空白がある。)

第2章 開拓の困難
現在は一面の水田地帯ですが、明治の始めの空知平野は湿地帯の大密林でした。
開拓の第一歩はこの大密林の切り開きから始まります。与えられた土地には小川が並行して十三本も流れている状態で、少しでも雨が降ると洪水の危険があるという状態で、土地造成の困難は筆舌に尽くせないものがありました。
移住の条件であった家屋はできて居らず、とりあえずテント暮らしです。灯火は石油ランプで、石油はもっとも貴重品で、爪に火を灯すという風に大切に使用されました。
やがて冬将軍が来て一面の銀世界の訪れです。割合温暖な山口県からの移住者であったので冬の寒気には困難したようで、半年のあいだ雪に閉じ込められた不自由な生活に耐えたのです。春が来て根雪が消えると開墾が始まります。
岩見沢は大木の繁茂したジャングル地帯で一面の湿地帯でした。何しろ100km
の距離での標高差が25mという全くの平坦な平野に石狩川がうねうねと蛇行しているので少し雨が降ると大水が出て手の付けられない泥沼と化します。僅かに乾いた地が現在の札幌市一帯という有様でした(札幌とはアイヌ語でサトポロー、乾いた土地という意味)。ジャングルは野幌にある原始林が面影を今につたえています。岩見沢はこの石狩平野の北になります。当時の駅は堀立て小屋に机一つという淋しいところで、駅には一人の「官員さん」という役人兼駅員がいました。黒いマントを着て山高帽にステッキ姿、髭を生やした人で威厳がありました。この男の案内で住むところに行きました。そこは森の真っ只中で小さな川が網の目のように流れている間の空地でした。家は無くて間に合わせのテントにアンペラという草を編んだ敷物に柳行李一つというありさまでした。ここに親子兄弟七人が大地にしがみつくようにして生活を始めたのです。勿論食料はないので例の髭の官員さんから、一日あたり米一人二合八勺、味噌、醤油、塩などと僅かな小遣い銭を支給されました。そして開拓の仕事は一日五本の木を切り倒し、火をつけて燃やすことです。簡単なようですがなかなかの難工事でした。湿地帯なので土を一尺も堀ると灰色の水が湧いてくるので気味が悪かったようです。それでも徳川慶喜でさえ百姓になったのだから、我々も我慢しなければと心を励まし開拓に従事しました。
石狩平野の開拓は洪水と泥沼との戦いです。馴れない毎日の作業に疲労を覚え休んでいると、例の官員さんが何処からともなく現れて、太いステッキで腰を小突きまわし“何を休んでいるか”とどなりに来るのです。この官員はもと、官軍方の兵士であったらしく祖父の一家を幕府方の賊軍と思ったのでしょうか、大変に威張ったとのことでした。余程腹にすえかねた祖父はもう我慢ならじと、行李の底に潜ませてあった錦の織物の一部を持ち出し「よく聞け我々は長州の毛利家に仕える官軍の武家なるぞ、故ありて北海道開拓を志してここに来た。これが錦の御旗の一部である。もうすこし言葉使いをおとなしくやれ」
といったところ、髭の官員も静かになり柔和になったという。錦の御旗とは明治天皇が江戸にむかうおり、行列に使用した御旗の一部を記念に切り取ったものです。旗の一部とはいえ大変効果があったものと皆が大笑いしたそうです。
しかし自然の驚異は小さな人間の力では中々克服できるものではなく、人間の生きる力を踏みつけるように過ぎていきました。いきなり木を切っても土地を広げることはできません。雨が降ると水が喜んで集まってくるのです。ですから溝を切って水はけを良くし土地を乾かしながら、毎年少しずつ広げて行きました。このようにして石狩川の洪水は長年を経て少しずつ下流のほうに遠のいていったのです。
開拓の仕事は少しずつ進んでいきましたが生活も落着いてくると、何よりも大切なのは子弟の教育と、新しい技術の導入ということでした。明治初年の北海道開拓に大きな力になったのはご承知のとおり、米国人のクラーク博士、ケプロン氏、ローランド宣教師という方々でした。農工業、教育問題、宗教などに大きな功績を残されました。祖父は教育に熱心な人でした。幸いにして宣教師ローランド夫妻を紹介されましたので、思い立ちまして自分の家に、士族の子弟を集めまして、とりあえずキリスト教精神に立脚する教育を進めることにしました。昔の寺子屋であったようです。

第3章 大地の恵み
原生林を切り開いたあとの第一歩は農作業の開始です。まず荒地にそばを植え付け、次に麻、じゃが芋、かぼちゃ、野菜るいと順序よく作付けしていきました。そのころは種も肥料もすべて内地から送って来るものを、年々の生育状況を見ながら作るのですから不出来なものもありました。まったく出来なかったものはさつま芋と落花生でした。問題の稲作は試験的に作付けしましたが成功しませんでした。
この頃になると移住者も十数世帯になり、一つの部落を作ることになりました。祖父はこの辺の戸長として忙しくなります。そして地名も岩見沢となりました。その名の由来はアイヌ語でユアミサワ=かけすという鳥の多い湿地という意味です。この出来たばかりの村では、一月に一回会議が開かれて楽しく夜を過ごしました。娯楽のない当時、部落の若いものが畑で採れた物を持ち寄り、いろりを囲み、ぐつぐつ煮ながら皆で食べたものです。そこで作物の出来具合とか技術的な意見の交換など、また子弟の教育の問題などが話し合われました。
色々の木も植えました。実のなるブドー、梨、柿、栗、松などです。
熊が時々出没して、留守中家の中の味噌をなめてしまったこともあります。また畑からは鹿の角とか大きな動物の頭の骨とかがゴロゴロでてきました。牛を五頭ほど飼いまして一家の栄養源としました。
祖父の家は多産系で男の子四名、女の子七名という子沢山でした。子供にはそれぞれ教育をし、八十三歳の生涯を送ることが出来たのですが、その心の支えになったのは聖書の中の言葉でした。「空飛ぶ鳥を見よ、野に咲く百合の花を想う・・・・・汝心を騒がすな一日の苦労は一日にて足れり」の一章です。北海道開拓の根本精神はこの聖句に尽きています。祖父は日曜日には教会に行き礼拝を守りました。一家はクリスチャンホームとして平安な日々を過ごしました。
                              おわり                                                
〔注 原文に従い採録したが、重複した部分は省略した。〕

追記:川戸清人の信仰暦 1892年(明治25年)1月、岩見沢講義所(キリスト教の伝道のために)が開設される。心の拠りどころとして聖書の話しを聴くようになる(19歳)。
            1894年(明治27年)3月、岩見沢講義所は札幌独立教会より分離、独立する。初めて二大礼典執行し、川戸清人(21歳)・中嶋捨男・高井宇一と共に受洗、初代信徒となる。
1899年(明治32年)4月、日本組合基督教会岩見沢教会設立に参加。教会役員として奉仕する。
1930年(昭和5年)教会堂・牧師館の建設に尽力する。
1949年(昭和23年)伝道開始90周年記念全国大会にて信仰生活50年以上で表彰される。



コーラル・アーツ・ソサイアティ第4回ドイツ演奏旅行記(2)

                         山下広之

3.クレフェルト「聖ゲルトルーディス教会」での演奏会
今日の演奏会に向けて午後3時過ぎにバスでホテルを出発して4時過ぎにクレフェルトの聖ゲルトルーディス教会に着いた。信徒会館でシェーンハウゼン合唱団とバッハのマグニフカトの練習をし、1時間ほどで終了、引き続いてシェーンハウゼン合唱団の方々が持ち寄った軽食で軽い食事と交流会が開かれた。アルコールこそ演奏前で無かったが、それ以外の飲物・食べ物は盛りだくさんで、それよりも手振り身振りで交流の方に忙しかった。私はバリトンで化学者として水の研究をしている方と自己紹介から始まって仕事の内容まで手振り身振りで説明し合って話し込んだ。
今日の演奏会の入場料は10ユーロであるが通常の演奏会とは違って30l方売れ行きが多く、順調に推移しているとの事で一安心した。
夜7時半から演奏会が始まった。今日は「バッハと私」というテーマでバッハの曲ばかりを集めた演奏会で、「バッハと私」という本(マレテント・ハートという、本職は劇場のマネージャーだった方が書いたベストセラー本)の朗読を曲の合間に入れての演奏会だった。客席は聴衆で一杯だった。
演奏会のプログラムは次のようであった。
     1.モテット6番(BWV230)(J.S.バッハ)  クレフェルト・シェーンハウゼン合唱団 
       ―朗読―
     2.オルガン独奏 コラール前奏曲BWV639)(J.S.バッハ) 
       トッカータとフーガ、ドリア調d(BWV538)(J.S.バッハ)
       −朗読―
     3.管弦楽合奏 管弦楽組曲第4番d(BWV1069)(J.S.バッハ)
            休憩
       −朗読(ここは特にバッハと死について)―
     4.モテット5番(BWV229)(J.S.バッハ)  クレフェルト・シェーンハウゼン合唱団
     5.マグニフィカート(BWV243)(J.S.バッハ) コーラル・アーツ・ソ
      サイアティとクレフェルト・シェーンハウゼン合唱団
      出演:合唱 コーラル・アーツ・ソサイアティ東京
            クレフェルト・シェーンハウゼン合唱団
         ソプラノ サビーネ・シュナイダー
         アルト  ウナ ヴァイン ケンベル
         テノール ワルター ドレス
         バリトン 小松英典
         管弦楽  ロイヤル・ケルン・バロック管絃楽団
         オルガン ステファン ベルツ
         指揮   ヨアヒム・ノイガルト(ミュンスター・カントル)
         朗読   ベルント ホフマン
 演奏会は21時40分に終わった。
終了後町のレストランで合同の夕食の交流会が開かれた。双方の合唱団で約100人以上がレストランを埋め、ドイツビールを楽しみながら美味しく食事した。日本から持って行った日本酒を注いで廻ると「ライスワインは美味い」という声が上がり大いに満足の気分だった。我々は大友氏の指揮で男声合唱で「いざ起て戦人よ」と、混声で「遙かな友に」を歌ってプレゼントし11時半頃までレストランで交流し、ホテルには12時半過ぎに帰着した。

4.ケルン「バジリカ聖アポステルン教会」での演奏会
11月9日(日)は16時からケルン市内の聖アポステルン教会で演奏会が行われるので午前中はケルン市内を散策にあてた。日曜日なのでケルン大聖堂のミサを見学し、ライン河の川岸を散策して見て廻った。
16時からの聖アポステルン教会での演奏は教会の恒例となっている「日曜の音楽」のプログラムの中でフォーレのレクイエムをコーラル・アーツ・ソサイアティとノイス・ミュンスター合唱団合同の演奏であった。プログラムは次の通りであった。
 
曲目:〜日曜の音楽〜
        「レクイエム」(フォーレ)
  出演:合唱 コーラル・アーツ・ソサイアティ東京
        ノイス・ミュンスター合唱団
ソプラノ クラウディア・シュルツ・アルトホフ
     バス   小松英典
     指揮   ヨハヒム・ノイガルト(ミュンスター・カントル)
     オルガン ウルリッヒ・ペーターズ
     入場料  無料
教会内は暖房機が故障していてやや寒かったが、聖歌隊席でパイプオルガンを伴奏で歌うために、聴衆の後ろ側から音楽を演奏する形式なので、コートを着たりして服装にはあまり気を使う必要がなかったために寒い思いは無かった。オーケストラは無かったがパイプオルガンでのフォーレのレクイエムも大変感銘深かった。

5.ヒットドルフ「聖ステファン教会」での演奏会
17時に聖アポステルン教会を出発して専用バスでヒットドルフに向かい、30分でヒットドルフの「聖ステファン教会」に到着した。
 ヒットドルフは製薬会社のバイエル社が本拠を構える企業城下町で、人口約15万人、ケルンから車で30分の位置にある美しい町である。この中心にある聖ステファン教会は1882年に建造された、120年の歴史を持つレンガ造りの大きな規模の教会で、立派なパイプオルガンや聖画などが燦然と輝き、その歴史とともに人々の信仰心の厚さと裕福さを感じさせてくれる。
 ここでノイス室内管弦楽団、ノイス・ミュンスター合唱団と共に18時10分から約1時間半ほどフォーレのレクイエムのオケ合わせを行い、20時から演奏会が始まった。
 演奏会のプログラムは次のようである。

  曲目:「讃歌」(グリーク) ノイス・ミュンスター合唱団
        「レクイエム」(フォーレ)コーラル・アーツ・ソサイアティ東京
                    ノイス・ミュンスター合唱団  
ソプラノ クラウディア・シュルツ・アルトホフ
     バス   小松英典
     管弦楽  ノイス室内管弦楽団
     指揮   ヨハヒム・ノイガルト(ミュンスター・カントル)
     オルガン ウルリッヒ・ペーターズ
     入場料  15ユーロ 

 演奏は歌っている我々さえも息を詰めるような緊張感の中で進み、最後の音が鳴り終わるとしばらくは演奏者も聴衆からも微動だにできないような感動が教会の中を駆け巡り、そして我に返ったように拍手が鳴り響いた。21時10分過ぎであった。
 終了後小松英典先生からも感動的な演奏だったと非常な褒め言葉を頂戴した。
 その後双方の合唱団で膨れ上がった町のレストランで夕食の交歓会が開かれ、ビールで乾杯のあと手振り身振りで大いに歓談した。コーラル・アーツ・ソサイアティからノイス・ミュンスター合唱団の女声メンバーにプレゼントがあり「お江戸日本橋」を我々で歌って23時過ぎにレストランを辞し、専用バスで23時半にホテルに到着、そのままぐっすりと眠りに入ってしまった。
 
6.リンドラーの自然博物館とオランダの町へ
 昨夜の演奏で予定の演奏会はすべてこなし終わって今日からは見学三昧のルンルン気分の毎日が続くことになる。今日はアルトでドイツ出身のクリスティーネさんの案内でケルンから西へ30kmほどの郊外にあるリンドラーのライリッヒ・ミュージアム(自然博物館)を見学することになっている。朝9時5分過ぎにホテルを専用バスで出発、ケルン郊外の丘の間を縫って走り40分で到着。今日は月曜日で休館日のところをわざわざ開けていただいて館長さんの挨拶も伺うことができた。1960年代からドイツも高度成長のひずみで美しい自然を破壊することが進んできて、古い良きものを取り壊し能率一辺倒の風潮が強くなった。そこでかつての農村を復元・保存して次の世代に伝えて行こうとこの博物館が1989年にスタートしたという。我々は1960年代のドイツの農家のペーターさんの家を見学した。日本の農家と何か共通するところもあるような自然の佇まいであった。また昔の居酒屋、馬車、農耕馬の飼育牧場、豚小屋、羊の牧場、ロープの製作小屋、昔の駅馬車の体験試乗など、自然を楽しみながら見学した。
 昨夜の演奏会を報道してくれた放送局が今日も我々一行を追いかけてきて、自然博物館を見学する姿を取材していた。村の鍛冶屋の前で我々が歌う合唱「お江戸日本橋」を録音してくれた。どのような音でドイツの電波に乗ったのだろうか。
 昼食は自然博物館の中のレストランで揃って食べた。19世紀の雰囲気の残る建物で食前のシェリー酒、ウサギの肉、豚肉のロースト、ケーキ、パンそれに美味いビールで昼食を終えた。ここにも新聞社が取材に来て全員そろって写真を撮り取材していた。
 13時50分にここをバスで出発、次の目的地オランダの一番南の町、マーストリッヒト町に向かった。バスは速度無制限のアウトバーンを走り、ウェストファーレン州を過ぎて1時間半でオランダのリンブルグ州に入る。同じアウトバーンでもオランダに入ると乗用車120キロm、バス80キロmに速度制限されるので、急にバスのスピードがガタンと落ちるのでわかる。
 自然博物館を出て2時間でオランダの一番南の町、マーヌ川沿いの人口12万人のマーストリッヒト町に着いた。ヨーロッパ共同体のお陰でオランダに来てもパスポートが不要だから自由に出入りできて随分便利になった。
 この町の見所はオランダで一番古い教会のセルファーグ教会があることだ。古色蒼然としてはいるが格調の高い雰囲気を持つセルファーグ教会はオランダでも最高の遺跡の一つに数えられている。またヤン(聖ヨハネ)教会も17世紀のもので高さ70メートルの高い塔を持っていた。バロック時代の市庁舎も17世紀の美しい様式だった。
 街角の喫茶店でトイレ借用のため飲んだコーヒーは格別だった。さすがにオランダのコーヒーはどこで飲んでも美味い。
 17時半前にバスでこの町を出発し今夜のドイツ最後の夜を全員そろって食べるケルンのレストラン・アルトケルンへ向かった。流石に皆は演奏会の翌日の一日の観光旅行で疲れも出てきたのかぐったりとして座席の背もたれに寄りかかり、バスの運転手さんが冷蔵庫に用意しておいてくれたペットボトル入りの水が飛ぶように売れた。ソプラノの木村さんが販売を一手に引き受けて車内を走り回り水商売に励んだ。お陰で渇きも癒やされて楽しく帰った。
 19時過ぎにケルンの大聖堂の前にあるレストラン「アルトケルン」に到着、合唱団そろっての夕食となった。この店は旅行案内書にもお勧めの店として広く紹介されているレストランである。昨日ヒットドルフで演奏した我々のフォーレのレクイエムの録音を聞きながらケルシュビールで乾杯。ところが最初に出てきたスープが私にとっては塩辛い。特に血圧に注意しなかればならない私にとっては普段味わったことの無い辛さだ。周りの人に聞いてみたら確かに普通以上の辛さだという。声がだんだん大きくなってウエイターに言うと、早速作りなおしますという返事。そんなことでスープが終わるまで1時間半も時間がかかったが、演奏会も終わりドイツでの観光も終わって、明日からはスペインに観光に向かうグループとドイツだけで帰るグループとのお別れ会としても盛り上がった。胡瓜だけの素材で作ったサラダ、パスタの上に牛肉のシチューを盛った皿料理などを楽しんだ。こうして夜11時過ぎにホテルに帰り、明日の朝の早発ちのために準備だけ完了して早々と寝に着いた。                          (以下次号)

執筆者の紹介

今井岩夫   男声合唱団アンサンブル・レオーネ団員。我孫子市我孫子在住。元文京区役所勤務。我孫子市社会教育委員。マラソン、俳句、ヴ        ォランティア活動など多くの趣味でも活躍。
        E−mail iwao0130@jcom.home.ne.jp

和田久實   英語試験対策専門塾リセEPL主宰。文京学院大学外国語学部・文京学院大学生涯学習センター・朝日カルチャーセンター講師。        東京都世田谷区在住。
        E−mail wadahisamitsu@hotmail.com

大橋新也   寶莱徳洋行有限公司・香港風帆廠日本代表。文京学院大学生涯学習センター講師。東京都葛飾区在住。多彩な趣味で幅広く活         躍。大橋新風の名前で川柳も発表。
         E−mail zodiac9@poplar.ocn.ne.jp

川戸龍夫   男声合唱団マスキーレ・東京バッハ合唱団・コーラル・アーツ・ソサイアティ合唱団員。日本基督教団経堂北教会員。川崎市多摩区        在住。
        E−mail kawado@d8.dion.ne.jp 

山下広之   男声合唱団アンサンブル・レオーネ、東京バッハ合唱団、コーラル・アーツ・ソサイアティ、コール・アマフォーク合唱団員。我孫子市        湖北台在住。文京学院大学生涯学習センター。   
        E−mail yamashitah@dream.com




創造の白樺
  平成16年1月(新年号)
  通巻第12号
  編集・発行  山下広之
  〒270-1132
我孫子市湖北台2−7−25  tel/fax  04(7188)1673
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