創造の白樺・第10号(秋号)
平成十五年十一月
目 次
1.俳 句(森本操子句歌集より) 森本操子
2.小論文「蒙を開く」
大橋新也
3.バビロニア(Babylonia)とユダヤ民族
大橋新也
4.女声合唱団コール・ブランカ
2nd Concertを聴いて 山下広之
5.執筆者の紹介
俳 句
森本操子
若葉の峠 香にむせにけり ころびけり
畑する人 田植する人 慈雨という
カーテン替え 敷物をとり 風薫る
故里は やはり故里 秋豊か
かくてのち いつまた逢わん われ七十
祝ぐる日や 去年のさし木も 芽ぐみけり
ブラジルの 旅終え椿の 赤きかな
命燃ゆ 紅葉に雪の 白きかな
秋立つや 一人厨に ネギきざむ
新緑や 孫の便りの 生き生きと
硝子戸を 這える虫あり 秋涼し
身の程を こぼれて咲くや 犬ふぐり
上を見て 足もつれけり 花疲れ
旅にいて 祭太鼓の 音かなし
凍雲の 山の端櫛の 歯の如し
秋立つや また逢ふ約の 果されて
(森本操子句歌集より)
小論文 「蒙を啓く」
大橋新也
昨今の世情に鑑み、本日は「蒙」(もう)について少しくお話しさせていただきます。
はじめに
日毎に進歩する高度文明社会、その中に他に後れまじと、頑張っている人間達。彼等は、それぞれ縁によって所属する国家は、概略次の様な国々のいずれかである。即ち、自由民主主義国家、また、それに反して主従・親子・師弟などの関係を重んじて個人の自由・権利などを軽んじる言わば封建的国家、それとは正反対の個人の平等と財産の共有を基盤に労働者が政治経済の上で実権を握っている所謂共産主義国家、また、現在の英国の様に「君臨すれども統治せず」と言う女王を上に戴き、それに忠誠を誓って国民が民主的に行為する国家、日本も嘗ての封建的且つ帝国主義的国家から、これに順じた国家となったのである。あのナチス独逸も、それ以前は、小さな封建的国家の連合国家であったのだ。
また、イスラム経典に固執したイスラム系国家。客観的に看るこれらの国々の国民の日常の生活及びのその個人個人の心と思考には、異様なものがある。時と処を弁えず、礼拝の時間がくれば、いかなる作業も中止して、礼拝を始める。
本来、人類が、生活の指針とする宗教理念と言うものは、当然なすべき仕事までも中止して神を拝めとはどこにもない。その唯一の例外がイスラム教である。
そもそも、イスラム教の教祖、ムハメッドは、幼い時から隊商の一員であり、寡婦に育てられ、また長じて迎えた妻は、これまた寡婦であり、元々はあらゆる手段を駆しての商才にたけていた。
あるとき、神がかりして、色々と予言などを始めたと言うことだが、本来、商人は、お客を煙に巻く様な特技で、商品を少しでも高く、そして多量に捌く才能が天賦のものとして備わっている。その様なムハメッドが、たとえ神がかりしたとしても、ある種のゼスチャーに過ぎないと言う見方の方が信憑性が高いと思われる。
「ウソも百篇言えば本当になる」と言う通り、物まね神がかりが何時しか、周囲が高く評価し、当にムハメッドは、本物の神がかりだと認められる。そうなれば、ムハメッドにとってはシメシメとしたものだ。
そこで、ムハメッドがいかがわしいと言う根拠は、本人の悟りについての本人はもとより、弟子達の記述がないことだ。
本なれば、本人自身が神がかりする少しでも前に、何某かの悟りに到達していなければならない。従って、コーランに見る、色々と掟があるが、本来、悟った人間は、掟などは作らない。コーランは、経典と言う意味は全くなく、強いて言えば、「読み物」、即ち「読本」である。一口に言ってしまえば、完全な新興宗教で、敢えて教理と言えば、当然のこと、古き先師が示した経典から引用して継ぎはぎした処の教科書なのだ。
さて、いかなる主義思想の国家も、その社会的発展が極度に進むと、必ず安定を欠き、正反対の思想に移行しようとする国民の意識が高まるものだということは近世の歴史でも証明済みである。
また、原始国家は、申し合わせた様に、カリスマ的、即ち「巫女」を中心に構成されていた。従って、もしも、その巫女が中道を外れた行動にでた場合は、大衆は困苦のどん底に陥り、場合によっては、クーデターが起きることにもなりかねない。と言うのも、巫女自身が、常日頃、己の行いを反省し、中道を守っていれば、その社会は、平和であるが、すこしでも、中道を外れると、魔が差して、悪鬼の如くに心変わりをする。一たび、狂いだすと、周囲の諌めも聞かなくなってしまい、気に入らぬ者たちを次々と惨殺してしまう。
ならば、両極端を捨てて「中道」を行く国家が理想なのだが、なかなか、人間と言う生き物は、波風のたたない春の海の様な長閑な社会に只管憧れても、そこに長く存在し続けることを良しとしない。多くの人間は、心のどこかで、常に変化を求めているのだ。
現実に、田舎の若者達が、土と鍬をすてて、都会の灯かりを求めて上京してきた例でも明らかである。排気ガスで汚れた空気を吸いながら、高い家賃と税金を払ってまでも、都会に憧れるのである。
何か、人があっと驚く様なことをしてみたい。ひねもすのたりのたりとしている様な処では腰を落ち着けることができないのが、殆どの人間なのであろう。この様な心の状態を漢字一文字で表すと「蒙」と言うことになるわけで、英語では Igorance と言う。
「蒙を啓く」と言う表現があるが、これは「物事の道理に暗い者に、よく解る様に教え導く」と言うことであって、敢えて英語にすれば、いとも簡単 enlightenである。
中国の孔子が自ら身に行って大成したと言う、「易経」に曰く、「蒙は、亨(とお)る。我童蒙を求むるにあらず。童蒙来たりて我に求む。初筮は告ぐ。再三すれば穢れる。穢るれば告げず。貞(ただ)しき利あり。これは、当に教育の基本的原点を指しているのだ。
即ち、人に道を教える者は、自分から出向いて幼い者(童蒙)に教えようとするのではない。ものの道理として、当然幼い者のほうから自分に教えを請いに来るのだ。かかる幼い者(童蒙)が誠心誠意で一つのことを教えてくれと頼む時は、教えてやろう。こちらを信じないで、二度、三度と同じ問題で、教えを乞うのであれば、師の道を穢すものであるから絶対に教えてはやれない。要するに、「蒙を啓くの道は、貞(ただ)しくなければならない。それ故に、「貞(ただ)しきに利(よろ)し」と言っている。
また、孔子と弟子との対話のエピソードに、次の様なものがある。
弟子「先生には、恐れるものは何もないと思いますが、その点、如何ですか?」
孔子「世の中で一番恐ろしいものは、学問のあるなしではない。無知蒙昧なる者、人としての道を踏めない者が一番恐ろしい。」と。
では本論にまいることにしよう。
本 論
さて、二十世紀も過ぎてはや三年。世界的経済不況の最中とは言え、巷には、ペット用品売場が結構繁盛している。
しかし、ペット用品の売れ行きが良好であると言うことは、それに比例して、人間社会が廃頽しているのだ。
今や、どこのスーパーマーケットに行っても、ペット用品、ペット食品に関しては、かなりのスペースを割いて、「売らんかな精神」に燃えている。
何故に犬や猫を飼い、愛玩となすかは、その根底に、「人間不信、社会不信、政治不信」が続いているからなのだ。たとえ経済成長期に於いても、人は他人の頭を蹴飛ばしても大金を手にしたいと言う気持ち。その背景には、人は信用できない。信用出来るのはお金だけだ。お金の前には、みんなひれ伏す。という一種の拝金理念がある。
つい一昔まえ、ある家電製品を格安に売る、〇〇電気の社長は、外出時には、必ずトランクに3000万円の現金を持ち歩き、世の中の話題を一つに集めた。業績もまずまずであったが、社長の死後は、急速に業績が落ち込んで、結局は、その会社の姿は消えてしまった。とどのつまり、社長の後継者は、初代社長のパフォーマンスをそのまま引き継げなかったのだ。
要するに、現ナマを見せれば、誰でもがヨダレがでると言うその心理を社長は掴んでいたのだろう。一口に言えば、仕入れ上手なのだ。
さて、冒頭のベット。即ち犬についてだが、ここで、誤解を招くといけないので、一寸付け加えよう。羊飼いがシェパードなど、犬を飼うのは、決してペットとしてではない。羊飼いという仕事の上での良きパートナーだ。シェパード自身も、それを良く知っていて、日夜懸命に働いているのだ。
概して、ペットは、買主の言うことを良くきく。単に、「お手!」と言えば前足を出す。
「お回り!」と言えば、二本の足で前足を高く掲げて、ぐるぐると回りだす。
飼い主は、「ハイ、よく出来ました。ハイ、お菓子ですよ・・・・」と芸のご褒美にお菓子をあげる。 喜んだワンちゃんは、芸を見せれば、お菓子が貰えると言う、学習機能がインプットされて、毎度毎度、飼い主の言う通りにする。
しかし、この辺で止まれば、イルカやオットセイの曲芸の調教と同じで良しとしても、近来、犬の場合、飼い主の心境は、人としての道を逸脱している。
その典型的な姿としては、都会の場合、犬は、野放しにはできないので、定期的に飼い主が散歩をさせに外に連れ出す。そして、当然、犬は、大小便をする。ところが、大便をする時に、「はい、なになにちゃん、ここにしなさい」と犬がしゃがんだタイミングに合わせて、お尻にポリ袋をあてがう。犬には、習慣を学習する能力があるから、それで良いものと思い、飼い主である人間様の差し出す袋に大便をする。そして、人間様は、ヨシヨシと言いながら、その犬の肛門を綺麗に拭き取ってやる。
「人間は、飼い犬の奴隷か!!!」と言いたくなる。
従って、学習機能旺盛な犬は、本来、犬の習性としてきた、用便を済ませた後、後ろ足で土をかけるしぐさを忘却してしまう。それに肛門の周囲を雑草に擦りつけて、拭き取るという習性も忘れてしまっている。
勿論、都会は、アスファルトで、土もなければ、雑草もない。仕方が無いといってしまへばそれまでだが、そんな環境で飼われた犬ほど惨めなものはない。
更に、もう一つ、犬は、もともと集団で過ごす動物であり、その中から自然とリーダーが決まる。そして、そのリーダーを先頭にして、隊を組んで行動する。と言う動物であるため、もしも、人間が、飼い犬の意志に従う様にすると、その犬は、「俺様の方が飼い主より偉いんだ。」とまあ、人間流に考えれば、そう言うことになる。
そこで、巷で犬を散歩させている飼い主を見ると、概して、犬が人間様を引っ張って歩いている。これでは、既に、人間は犬の奴隷に成り下がっている。
どんなに、利口な犬と評判を得ていたとしても、犬に引っ張られて散歩をさせている飼い主は、もう犬を飼う資格はない。更に、人間の資格も失ってしまっている。
ましてや、爬虫類をベットにしている人間は、その精神状態に於ては、もう既に人間の本質を失ってしまっている。
これは、本当に不思議な現象だが、犬をペットにしている人の顔を良く覗き込んで見ると、何処か、人間の顔としてではなく、犬の顔に似ているのである。そして、更に驚くことは、そう言う人間は、人間同士の交際、そして会話の中で、何となく、人間的な思考ではなく、マイペース、我田引水的な行動をかいま見ることがある。
とても、綺麗好きな飼い主でも、自分の飼い犬の抜け毛が散乱している部屋には、全く気にならない。
独り買い物に外出すれば、色々と化粧品などに目移りを覚えても、家に戻って、家の中が犬独特の匂いが充満していても、全然気にしない。そして、犬に口移しで食べ物を与えている。これで、もうお解りであろう。こう言う人は、もう犬を愛しているのではなく、犬の奴隷になっているのだ。
そう言う犬は、もしも死ねば、その魂、即ち、意識は、飼われていた屋敷に執着し、地縛霊となって、死んだ後々までも、その家屋敷に意識を留め、飼い主の心に訴え何某かを要求する場合がある。
インドなんかでは、象の霊に憑依されたり、蛇の霊に憑依されたりして難渋した人間の話しが山ほどある。
蛇に憑依されると、人間の脊髄構造の常識では不可解な、床の上をS字形に蛇行して速やかに這い回る。
勿論、人間に人間の霊が憑依する場合がダントツに多くある。これも、前述の場合と同じ様に、かつて従属していた長上が他界した場合、その意識が、一番己の意の如くに働いてくれた者の心に憑依するのである。
かつての激戦地を見回った元兵士が、突如その場で戦死した上官の霊に憑依された生々しい話しも聞いている。憑依されると、その者の声まで変わってくる。更に、言葉が命令調になって、やたらと指図をする様になる。
処が、憑依によって、心に異常をきたすと、大抵は、医師の門を潜る。だが、いかなる医者でも、これは、憑依現象であると診断を下さない。実に、不思議だ。そして、どうするかと言うと、精神安定剤や催眠剤などを投与して、気分が平穏になることを良しとする。
だが、茲に不可解なことがある。東大の医学部の学生で、精神科を専攻している者は、その教科書を開くと、「民族霊の憑依現象」と言うカテゴリーがある。従って、多くの精神科医は、霊の憑依現象が、狂人、即ち、精神異常者と深く関わりがある事は知っているのだ。
然し、現実に医師は、「憑依現象症候群」を決して口に出そうとしない。老人性痴呆症、アルツハイマー病の殆どは、何らかの憑依現象である。
斯様な医師の姿勢も、「蒙」の一語に尽きると思う。
生きとしいける者、総てみな意識をもっているのに、なぜ、意識の世界を軽んじるのであろうか。これこそ、最大の蒙と言わざるを得ない。 物質は永くその姿を保つことは出来ないが意識は、永遠なのであることを、なぜ多くの人間は、重要視しないのであろうか。
更に具体的に言えば、人間だれでも、たとえどんな些細なことでも、行動を起こす数秒前には、その様にすると言う意識の上での決断がなされている。難しいことになれば、幾日も時間をかけて、意識の上で、問題の成り行きをシミュレーションして、熟慮し、決断して行為しているのだ。
もしも、無意識に行動するとすれば、その人間は正常ではない。 内臓を動かしている不随筋肉とは違うのだ。
ここで、近代精神科医の蒙を啓く意味に於いても、日本人の永い歴史の中に民族の心の中にインプットされてきた、狐の霊について少しくお話して見よう。
狐は、そもそも、稲荷信仰と深く結びつきを持っていることは、衆知の通りだが、稲荷大明神の眷属、即ち、番頭である。狐は、元々、狐は狼や犬と違って一夫一婦の生活をするが故に、人間的に考えれば、非常に清く正しく美しくと言う生活をする関係上、厳格な稲荷大明神の眷属としては相応しい動物であると解される。
稲荷信仰は、そのルーツを訪ねれば、古代中国の道教を基点として、中国から朝鮮半島を経由して、日本に上陸したと考えられる。日本に上陸した際、日本古神道の宇賀神とオーバーラップして益々稲荷信仰が広まっていった。宇賀神こと、伊勢の外宮のご祭神・豊受大神のことである。一口に御神徳は、と申せば、五穀豊穣を司る神である。五穀豊穣を司る神は、世界各地に、それぞれの風土環境に応じて存在し、その御姿形は、各々その土地土地の気候や環境によって、さもあらんと言うお姿をされている。だが、元々は、みな同じ五穀豊穣の守護神なのだ。
欧米では、毎年秋が深まり、五穀豊穣を神に感謝する祭があるが、その起源を訪ねれば、
Irish の精神文化に到達する。それが、今日、キリスト教と合体しているのだ。
さて、稲荷大明神は、申し合わせた如く、眷属を従えておられる。
かかる眷属にも、それぞれ役割があって、精神世界の狐であれば、総て稲荷のお遣いをするとは限らない。
がしかし、善悪を問わず、神格化した霊狐(狐の精霊)のことを、我々人間は、一纏めに「妖狐」と呼んでいる。
そもそも妖狐とは、中国にある道教の教科書に相当する書物『道家書 抱朴子(ほうぼくし)』に記述がある。(この書物は、主に不老や長生の術を説明しているとのことだ。)
妖狐にも、個々の意識の高い低いがある。勿論、ここで言う狐は、総て意識界の狐であって、三次元即ち娑婆世界の狐、いいかえれば、野山や動物園にいる狐とは、全く別のものである。
さて、妖狐の意識に上下があると言うことで、次に、その種別と役割を示そう。
第一に、「妖狐」と言うと、勿論、善玉ではなく悪玉狐の素質をもつ輩が多い。
通称、「おきさきつね」と呼ばれるもので、よく人間の心に憑くとされる狐。とりわけ日本では、関東地方西部で信じられ、狐持ちの家ではこれを飼いならし、種々の不思議を行なうとされた。
通常、きつねつかいが、色々と妖術を用いる時に、術師の傍らに憑依して変化自在に協力するのがこのきつねである。
註)狐を使って行なうという妖術。また、それを行なう人のことを、飯綱使(いづな使い)と言う。だが、ここで登場する「飯綱」とは、想像上の特別小さな狐で、いたちと同じ位の大きさとされていて、細い竹の管を潜り抜けることが出来ると言うことで、術師の間では、「飯綱の狐」と呼んでいる。信州の戸隠山の峰伝いに飯綱と言う山があるが、そこにある飯綱山神社も、この飯綱の狐と深く関わっている。
第二は、「きゅうびのきつね」で、尾が九本ある狐。古くは、平和の世に出るめでたい獣でしたが、後には、多くの年を経た妖狐とされた。芝居のストーリーの題材に出てくる狐は、このタイプが多い。普通、九尾の狐と言えば、真っ白であるが、意識レベルの高いものから順次、天狐・金狐、次に銀狐・白狐・黒狐の五種類がある。
第三に、野狐は厳しい神の眷属としての掟が守れず、村八分にされた、さ迷える妖狐で、一口に言って妖怪狐である。中国で「金毛九尾」と呼ばれる九尾の狐(きゅうびのきつね)が、悪さに於ける点では最も有名だ。
日本でも、やたらに、心がうつろの人の心に憑依して、その人間をして狂人とせしめる様な悪さをするのは、総てこの「野狐」である。
例えば、元々頭脳明晰、明るく、健康で周囲の人望を集めた様な人が、第一線から退き、
ほっとした瞬間に、その心の隙に乗じて、心を占領、三次元の世の中を人間の肉体を借りて闊歩する様な類が、こやつなのだ。
そうした人間には、それぞれ病状として現れるが、多くは、躁鬱病で、躁になった時は、
めったやたらに、人に命令や要求を発したりし、鬱になった時は、例えば、大雨の中でも
傘もささずに、道端に座り込んでびしょ濡れになることや、また、布団を頭から被って、
「こわいこわい」と慄く場合も見られる。
それに、共通して言えることは、野狐に憑依されると、普段とは違った馬鹿力を発揮し、
例えば、粗暴に振舞うのを静止しようと周囲の者が近づくと、猛烈な腕力で突き飛ばすことが屡々。
なれど、良く目を睨むと、顔を背けてしまい、まともに、相手の目を見られないのが特徴で、一見して、目がキヨトキョトして、しかも、目がすいてしまう。
さて、日本では、白狐に関してはいろいろな謂れや伝説が伝わっている。
その中でも、陰陽師(おんみょうじ)である有名な安倍晴明(あべのせいめい)の母親『葛葉』は、『白狐』だと言われている。そのため、『安倍晴明』を祀る大阪安部神社には『白狐』の像が〆縄を巻いて鎮座している。
そしてまた、お稲荷様の使い神(狛狐)も『白狐』であり、京都伏見稲荷大社にある白狐社に祀られている。
豊川のお稲荷さんの眷属である狐は、伏見のお稲荷さんの狐とは、ルーツを異にしており、また、筑波山の裏の笠間稲荷の眷属狐も、そのルーツは異る。
岡山の最上経王稲荷の眷属は、これまた、別のルーツをもっている。
斯様に由緒が知れた狐は、問題なしだが、厄介なのは、野狐である。もしも、野狐の悪さを蒙った場合は、通常は、観世音菩薩に祈念して、お慈悲にすがり、助けを請うことが、安全な修法とされている。がしかし、「触らぬ何とやらに祟りなし」、正しい陰陽師に力を借りる方が無難であろう。かかる陰陽師も、その実は、観世音菩薩の大慈悲にすがっているのだ。
因みに、善玉なる狐が霊力をもつまでには、意識界での年月にして、少なくとも300年の修行期間を要するとされている。
仮に、この三次元の世界の一年が意識界の一日として、計算すると、
狐が一人前、いや一狐前になるには、この世の計算で、109,575年と言う、気の遠くなる長い長い歳月の修行なのだ。
さてさて、妖狐談義で、かなり横道にそれてしまったので、ここで、元に戻る事にしよう。筆者が永年住まいした家を取り壊しで新規に建て直すことになった時のことである。
心の中で、「我が家の意識よ、永年よくぞ、私達を恙無く住まわせてくれた。有難う。
この度、老朽化したによって、どうしても建て替えねばならなくなった。是非とも理解して欲しい。云々」と家の意識に呼びかけた。
すると、驚くなかれ、それまで、頑丈であった、2階建ての家の建具や床が、急にミシミシと軋む音をしだした。床の根太が緩んだ様に、当に鶯張りを思わせるほどだ。
そのとき、「ああ、やはり、家にも魂と言うか意識がある。その意識が、いままで家を安全に守ってきてくれたのだ。」と斯様に感謝の気持ちが心に溢れてきた。
要するに、解体せざるを得なくなった理由を心から家の意識に報じた瞬間、その意識は、
「了解!!」と言って、その家から離れて行ったのだと思った。
従って、日夜、よきにつけ、悪しきにつけ、辛うじて無事に過ぎたと言う事に対して、報恩と感謝の気持ちで過ごさなければ、まことの人間ではない。と言うことが、痛切に感じられたのであった。
どの道、人間は、その心にエゴ的なものが多いので、自分に都合の良いことを善しとし、
不都合なことを悪しきと考える動物であるので、自分に都合が良い場合は、得てして相手には都合が悪い場合が多いのだ。双方が良いと言う場合は、大抵、どちらかが承知をしないから人間と言う動物は、手がつけられない。
中道の実践は、空念仏にすぎなくなるのは、斯様な人間のエゴイズムにあるのだと思う。
勿論、国と国との問題も同じだ。と言うのは、その国を動かしているのは、人間だからである。巷に見かける「世界人類が平和でありますように」と言うキャッチコピーも、結局は、理想であって、残念ながら手にとれるものではない。しかし、もしも、かかるキャッチコピーが見られなくなった世界は、大調和の世界と思いきや、そうではあるまい。その時は、もっともっと暗黒の世界だと思う。
やはり、世界万民のための理想と願望は、常に掲げられ大衆の心に投げかけられ続けていなければ、人間は、何をするか解らない危険な存在と思っても過言ではないと思う。
地球の生態系を変えているのは、弱肉強食の動物ではなく、実は、人間なのだと言うことを努々忘れてはならないのである。
冒頭に掲げた「蒙を啓く」と言う心と姿勢は、一分一秒たりとも弛ませてはならないのだ。
バビロニア(Babylonia)とユダヤ民族
大橋新也
上古、中央アジアのチグリス川、ユーフラテス川両岸の下流、三角州地方に興った国で、旧約聖書の中では、シナル(Shinar)
・バベルと言われ、土地は豊かで、運河・灌漑の便が発達し、エジプトに比肩すべき世界最古の文明が栄えた。
初めは、この地方は、紀元前2250年頃までは、スメール人(Sumerians)が住み、相当の文明を有したが、セム族(蒙古・トルコ系遊牧民族・一部のユダヤ系民族=カルジャ人)なる所謂バビロニア人が侵入して、その文明を摂取し、いたる所に都邑を発達させ、西暦紀元前1792年頃、時のハンムラビ(Hammurabi)王(バビロン第一王朝第六代の王)、バビロンに興って初めて統一国家を建てた。
後、バビロニア北部地方のアッシリアに統合され、西暦紀元前七世紀後半に、ナボポラッサルが出て、新バビロニアを建て、国政大いに振るった。しかし、西暦紀元前五百三十八年、強敵ペルシャに滅ぼされ、その属領となったが、以後、再興はならなかった。
丁度この頃、西暦紀元前四百六十三年、現在のネパールに位置する。中インドのコーサラ国の王家に、王子・ゴーダーマ・シッタルダが生まれた。母親は、産後のひだちが悪く、僅かに一週間にして他界した。ゴーダマは、母に会いたくて、嘆き悲しみ、「人間はなぜ死ぬのだろう、いつまでも若く保てないものか、」と悩まれ、遂に城を捨て、妻や子を捨て、出家の道を選び、後に成道して、釈迦牟尼佛(プッタ)となった。釈尊は、晩年「己の死後、五百年は、なんとか正しい事が通るが(正法の世)、次の五百年は、形ばかりにとらわれた世の中(像法の世)となり、更にその後は、いづれが正しく、いづれが正しくないか、混沌とした世の中、即ちこれを末法と言うが、その末法は、未来永遠に続くであろう。」と弟子達に伝え諭した。
更に、釈尊は、衆生に対して次の様に説かれた。「己の亡き後は、己の姿を彫刻などに写して、それを拝んではならぬ。それぞれが、自分の心に灯火を点し、自分の心を拠り所となし、決して他を拠り所とするなかれ。もしも困ったときには、自然のありのままの姿をよく見よ、その中から正しい生き方が悟れるであろう。」
釈尊よりも、およそ百年ほど前、即ち、西暦紀元前五百五十二年、中国、春秋時代、孔子が生まれている。孔子の言行禄は、死後弟子達によって纏められ「論語」として編纂された。孔子の教えは、一貫して「中庸」である。
さて、その後のバビロニアは、種々の変遷を経て、1638年トルコ領となり、イラン高原と合わせられ、後、英国とロシアの勢力に服従せざるを得なくなった。
第一次世界大戦の結果、国際連盟の管理下に帰し、英国の委任統治であったが、後にイラク王国として独立し、改めて国際連盟に加盟。首府をバクダッドと定めた。
ところで、旧約聖書の創世記の後半、ノアの方舟の件の後、ノアの子孫が築きあげたのが、
バビロニア都市と言う説を信用すれば、それまでは、人々は、人種を超えて、みな同一の言語を用いて、意志の疎通を良く保ち、上から下への命令が一刻も早く行き渡り、時の王の念願による都市計画も王の意の如くに促進され、あの有名なバベルの塔が造られたと言うのだ。その塔は、一週間を意味づける様にも考えられるが、7階造りだという。
この時代と言うよりも、原始国家と言う社会は、今日で言う処の「縦割りの組織」と同じで、横糸のない織物の様である。従って、一見して上を中心として、ピラミッド形の社会で、鶴の一声で何でもできてしまうと思われるが。現実は、底辺の人々は、奴隷同然であり、やがては暴動や反乱を引き起こしかねない。
さて、バベルの塔建設のその一部始終を見分された、天地創造の神・エホバは、「このままにしておくと、人間どもは、何を考え、何をやりだすか解らない。何事も、一致協力して王の命令に従えるのには、コミュニケーションの基本的メディアとしての言葉が単一であるからだ。その言葉を乱してしまえば、皆が一致協力はしまい。」それで、エホバは、王が、最上階に登り、天に向かって矢を射たその高慢さを怒って、それを好機として、バベルの塔を破壊し、同時に、大勢の人々がそれまで用いていた統一された言語が乱されて、意志の疎通に大きなクギを刺されたと言うことだ。
それで、散り散りに分かれて行った人々の中に、カナンの地に南と北とに分かれて安住の地を求めた人々が、ユダヤ人の先祖とも言われる種族で、その酋長とも言われるのが、あの高潔な、アブラハムである。彼は、神の命令には、絶対に背かなかった。 それからかなり後、イエスがある日のこと、山腹で魔王と対決した際、魔王曰く、「お前は、死んだ人を生き返らせたり、病気を治したり、普通ではできない事をしてきた。そこでだが、目の前に転がっている石ころをパンに替えて見よ!!」
イエスは、応えて曰く「人はパンのみに生きるにあらず、人は神の言葉によって生きる」。
そう答えた直後、かの魔王は、退散したと言う。要するに、イエスは、面と向かって、お前は魔王だ!!と決め付けずに、人は神の言葉によって生きると言い切って、案に「貴様は魔王だ!!魔王の言葉には従わない!!」と意味深く答えたのであった。
アブラハムも、あるとき「汝、汝の子を生贄に差し出せ」とエホバ神の言葉をきき、断腸の思いであっても、素直に神の命に従って、息子と共に、山頂に向かい、生贄の祭壇を造り、そこに息子を寝かせて、火を点した瞬間に、神は、アブラハムの神への絶対信仰を認められ、生贄の儀式を中止させられた。更に、神は、神通力をもって、息子の代わりにと、傍らに、山羊を一頭出現させ、それを生贄にする様に仰せになった。と旧約聖書には記されている。
モーゼの物語は、それからずっと後の時代だ。モーゼと言えば、十戒で有名だ。だが、しかし、エホバが、「ユダヤ民族こそ、神に選ばれた人間である」と仰せになった事で、実際にユダヤ人は、その意識が強く、異民族を軽視することが以後延延と常識的になっている。それに反発する民族との対立は、未来永劫に続くと言っても過去の歴史が証明する以上過言ではないと思う。
ユダヤ民族は、どこにあっても、異民族からは嫌われる。そして虐待されがちである。
だが、信念と言うものは、誠に堅固なもので、虐待されても、必ず立ち直る。ゼロからでも、マイナスからでも立ち直ってしまう、不退転の信念を、先祖代々請け継いている。
本来、ユダヤ民族は、国を持たないことになっている。その原点は、あのアブラハムは、一族を引き連れ、神の言葉に従って、最初は、緑豊かな福よかな土地に住んだ。が、しかし、ある日突如として、神の啓示を受けて、その肥沃の地を捨てて、荒野に移住した。それ以後は、永代、流浪の民となったのだ。
要するに、ユダヤ民族は、神の言葉に従って、つぎつぎと居住地を変えていった。それ故に、ユダヤ人には、決まった国は与えられないことになっているのが、伝統的常識である。
近世を振り返ってみても解る通り、ユダヤ人は、世界の各地にちらばって住んでいる。
とりわけ沢山いる処は、アメリカ合衆国であり、その中でも、一際多いのは、ニューヨークである。従って、「New York」のことを一名「Jew York」とも呼ばれる。
それほど、New Yorkには ユダヤ系の人たちが多い。
勿論、ヨーロッパの各地にもユダヤ人は多い。それに、神によって選ばれた人間と言うことで、やたらには異民族と婚姻をもたず。同属、同種結婚が続いているので、遺伝的に、卓越した聡明な者も生まれれば、また、その反対の者も生まれる。
しかし、あらゆる社会に、頭角をもちあげ、芸術、科学、実業、工業、政治、経済、すべての世界で、指導的立場を確立している。従って、ユダヤ系企業に対抗する企業は、ことごとく壊滅される結果となる。それ故、初めから、ユダヤ人と解ると、敬遠する人が多い。
第一次大戦後、英国は、世界流浪のユダヤ人達に国家を与えることを提唱したが、叶えられず、結局、第二次大戦終了後、間もなく、英米の援助に下に、何とパレスチナの地の中に、イスラエルの国家を造ることになった。
他人の土地に、土足で踏み込み、「今日から、ここが俺達の国だ」となれば、今まで住んでいた人々で血の気の多い連中は、即刻敵対するのは常識。たとえ、昆虫や動物の世界であっても、縄張りに侵入するものに対しては、敵対行動にでるのは当然だ。
くまんばちにしても、自分の縄張りを乱すものに対しては、一斉攻撃にでる。縄張りを荒らさないと解れば、絶対に攻撃してこない。人間だって、同じだ。
人間の場合、異なる宗教や政治理念やイデオロギーが存在するからには、万人が万人、平等に友達付き合いは不可能である。かつては、国際連盟、今日では、国際連合、同じ様なものだが、なかなか多数決で決められたことに素直に従う国が、そう簡単にあるものではない。渋々従う国、諸手を揚げて従う国、真っ向から反旗を翻す国、それぞれ色々な国があって当然。
国連と雖も、小さな企業組合などと同じで、常にメンバーであることによって得をするのは、理事長や理事であり、力関係で優位にたっている。損をするのは、力が弱くても世間の手前で、メンバーの末席を汚している国々である。それらは、年会費だけ絞りとられて、
実質的に何のメリットもないに近い。
従って、何時の時代でも、異端児と言おうか、アウトサイダーの方が飄々としていられる。
どこにも所属していなければ、束縛を受けずに、マイペースで進むことができる。
話しを元に戻そう。 バベルの塔の様に、縦割りの組織で、鶴の一声で、何事も指導者の意のままに動くと言う事は、近世の例では、ヒットラー政権であり、また、近くは、北朝鮮である。やがては、神の裁可が下って、民主的な自由の世界となるのであろうが、国にはそれぞれ国の歴史上のカルマ(業)と言うものが過去現在未来へと永遠に続くので、本来は、現人類文化の発生の地とも言われるバビロニヤ地方は、絶対に戦いのない世は訪れないのと同じ様に、イスラエルも同じであると思って間違いはない。本当は、ユダヤ民族は、いずこにも国家を持たず、その代わり、世界のいずこにも自由に住むことが、神とユダヤ民族との約束事に忠実なのではあるまいか。神の子として選ばれたのであれば、国なんてケチなことを主張する必要は毛頭ない筈だと確信する。
その代わり、全ての国の人々が、ユダヤ人を優しく歓迎し、受け入れる大きな度量をもたなければならない。
闘争と破壊、恨みと謗り、報復の念がつづく限り、真の平和は訪れない。
「左の頬をたたかれれば、右の頬を出せ」また「恨みに報ゆるに徳を持って為す」という心と実践がなければ、世界平和は、空念仏同然である。
このままでは、テロの恐怖は、消えることはあるまい。
読者の皆さんは、どの様にお考えですか?
あとがき
日本の三大自動車メーカー、即ち、トヨタ、日産、ホンダの内、日産自動車は、業績不振に陥り、遂に、フランス国営のルノーを立て直したゴーン氏を社長に迎えた。氏は、就任早々、著しく業績の上がらない、マリン・エンジン部門などから、リストラクションに手をつけると共に、社長と社員や下請との間の言わば社内文書は、全て英語に統一した。当に、バベルの塔の時代にタイムスリップした如く、社長の命令は、末端まで、間違いなく伝達され、全てがゴーンの意の如くに動かされた。言わば、完全なる縦割りの構成である。
当然のこと、有能な人材であっても、彼の行ったリストラクションの犠牲となった者達が沢山いた。
従って、今の日産は、業績も上がり、かつて切り捨てた部門も一部復活し、人材もリタイアさせた者達の一部を呼び戻した。しかし、この社内機構は、ゴーンがもしも居なくなれば、結局は、元々本来の日産の姿に戻ってしまうに違いない。その理由は、本書の冒頭に掲げた、バベルの塔の件にみることができる。
更にまた、二十世紀の終りに近くなってから、急速なるパソコンの普及。更に、従来のMacを凌ぐMicrosoftの驚くべき普及。そこへ持ってきて、今や英語が世界共通語と言っても過言でない。英語が解せない人は、村八分にされる始末。この様な国際語が英語に統一されたと言うことは、やはり、やがて、何某かの外的パワーが働いて、英語そのものが破壊されることも無きにしも非ず。と心配である。
れを、何も精神論のみでなく、物理学的に言っても、バラバラ、混沌としたものが、集まって、一つになれば、いつしか必ず、バラバラ、混沌に戻るのである。これは、物質エネルギーの第二法則、即ちエントロピーの法則が存在する限り、真理である。
従って、会社にせよ、国家にせよ、一気にリストラクションを決行しては反動がその分だけ比例して生まれるので、いかなる事に関しても、程ほど、中道でなければならない。
それは、既に遠い昔、中国の孔子も、インドの釈尊も、同様に悟って、衆生に説き聞かせているではないか。
日本の国歌には、「さざれ石の巌となりて、苔のむすまで」と締めくくっているが、
さざれ石が巌となれば、必ず、もとのさざれ石になるのだ。
従って、ものごと全て、完成されることは、決して目出度いことではない。常に完成に向かって努力を惜しまない、その様な日々が、とても幸せなのだと理解できる様な広く豊かな心を持ちたいものである。
昔から、芸術作品など、あまりにも否の打ち所がないほどに巧く行くと、魔が差すといって、敢えてどこかにわざと欠陥を造ると言う作風があるが、なるほどと思うのである。
未完成交響曲が過去、現在、良く評価され、未来永劫に演奏されつづけて行くと言う事実でも、お解り戴けると思う。
女声合唱団コール・ブランカ 2nd Concertを聴いて
山下広之
好天に恵まれた9月28日(日)の午後、緑輝く柏の葉公園のさわやかちば県民ぷらざホールで、午後2時から流山市の女声合唱団コール・ブランカの2nd Concertが開かれた。
約500人を収容するこのホールを立ち見もある満員の観客を集めて約20人のメンバーが野村秀美氏の指揮の下に4つのステージで熱演を広げた。
第一ステージは主に中山晋平の童謡を岩河三郎の編曲で「しゃぼん玉」ほか5曲を歌った。第二ステージは取手男声合唱団を交えてモーツァルトの六つのノクターンを混声で歌い、厚みのあるモーツァルトを聞かせてくれた。15分の休憩の後、後半は純白のドレスから黒を主な色調とした衣装に着替え、第三ステージでは高嶋みどり作曲の「あう」を歌い、そのバロック的な曲の流れと不思議なハーモニーを堪能した。最後の第四ステージではLet's sing the Loveと題してBEGINの「涙そうそう」他「愛」に関する歌5曲を仕ぐさを入れて歌い、気楽な雰囲気を表現していた。
指揮者の野村氏は高校生の時にメンバーを集めてバッハのマタイ受難曲を演奏した経験を持っておられると聞いているが、我孫子では私とともに我孫子バッハアンサンブルを創立して19年間共に歌ってきた。
またソプラノのAさんは私と同じコーラル・アーツ・ソサイアティで歌っていて、一昨夜・昨夜とバッハとフォーレの大曲の激しい練習が続いていたのに、今日は元気にステージで歌っていた。大変な努力である。11月にドイツ公演に行く予定になっている。
会場にはコーラル・アーツ・ソサイアティの野上氏・今さんのほか、コール・アマフォークの益池氏や井手口さんなど、私と現在一緒に歌っている仲間が観客として大勢応援していた。
演奏は自信び溢れているようにしっかりと歌い、声も良く出ていた。2年前のFirst Consertから大幅に前進した演奏だったと思う。最後にアンコールでNHKの調査により日本人が一番好きな歌となった「赤とんぼ」をア・カペラで歌い、また会場全員の合唱で植原敬之の「世界にひとつのだけの花」を歌って1時間40分のコンサートを終えた。
帰りには手賀沼を見下ろす店で波間に金色に輝く夕日を眺めながらコーヒーで乾杯し帰
途に就いた。
執筆者の紹介
森本操子 松山市生まれ。愛媛県立松山高等女学校卒業後上京し料理を学び、北海道函館市の森本秀太郎氏と結婚。函館の短歌サークル 「岬の会」会員。俳句のほか短歌、陶芸、旅行等で多彩な活動を行い、昭和61年旅先にて89歳で永眠。平成3年遺族が「森本操子 句歌集」を編集・出版。
大橋新也 寶莱徳洋行有限公司・香港風帆廠日本代表。文京学院大学生涯学習センター講師。東京都葛飾区在住。多彩な趣味で幅広く活 躍。大橋新風の名前で川柳も発表。
山下広之 男声合唱団アンサンブル・レオーネ団員。我孫子市湖北台在住。文京学院大学生涯学習センターキャリアカウンセラー。?〇四(七 一八八)一六七三
創造の白樺
平成15年11月(秋号) 通巻第10号 編集・発行 山下広之
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